[コメント] 恋のロンドン狂騒曲(2010/米=スペイン)
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これは特にウディ・アレン自身の出演が顕著に減少した今世紀の作品群、より厳密には『メリンダとメリンダ』以降の作品を概観しての印象である。ときに喜劇でもあり悲劇でもあり、また単なる与太噺に過ぎないかもしれないそれら各作品の質感の偏差の按配が、「アレン的物語」なるものの存在を確固として示しながら、しかしそれがアレンによって「創作された」というよりも彼に特有な嗜好のアンテナとフィルタを通して「発見された」ものであるように思わせる(たとえば、ロンドンのある場所には『恋のロンドン狂騒曲』の物語が、また別の場所には『マッチポイント』の物語が転がっていた。アレンはただそれを見つけ出し、映画用に語り直したに過ぎない――という「錯覚」)。そして、ひとつびとつの作品それ自体ではなく、それらを集めた総体によって何事か―すなわち「ウディ・アレン」―を表そうとしているのではないだろうか、と。
以上は、もちろん、私の妄想とまでは卑下せずとも素朴な印象の域を出るものではない。しかしながら、この『恋のロンドン狂騒曲』もそうであるように、また結果として多くの観客に愛されることになった次作『ミッドナイト・イン・パリ』にしても例外ではなく、一個の作品としては取り立てて語るべきことを見つけるのが難しいにもかかわらず、ひとたび俯瞰すれば、それが現在進行形の「偉業」を形作るひとつのピースであるという理解をごく自然に得ることができる。アレンにおいてはもはや一作ごとの出来や不出来に一喜一憂するべき性質の映画作りは行われていないように見える。
そうとは云い条、この映画そのものについても少し触れておこう。フリーダ・ピントは「窓越しの美女」として登場する。それ自体はいささか紋切型のきらいがあるが、彼女に「ギター」を奏でさせているというあたりにアレンがただの脚本脳だけの持ち主ではないことがよくあらわれている。やや抽象的な云い方をすれば、「美女」という視覚的要素によって特徴づけられるべき新たな作中人物をむしろ聴覚的に物語に招き入れているということで、これだけならば理屈の問題だが、すばらしいのはここで演奏されているのがギターであるという点だ。実際にシーンを想像すれば大方の観客にも同意をいただけると思うけれど、ここで彼女の楽器がピアノやフルートやヴァイオリンであったならば、当該シーンの魅力はギターの場合よりも小さいだろう。これは理屈ではない。しかし優れた演出脳にとってはおそらく自明の解である。
作中で最も常識的・良識的人物であるかに見えるナオミ・ワッツに最も大きな感情=表情の振れ幅を与えているというのも手練の技だ。宝石店シーンで耳飾りを試着した際の恍惚を自制した表情、アントニオ・バンデラスへの恋心を隠さぬ少女的に呆けた表情、あるいは恋破れての落胆の表情、さらには融資を渋る実母に対するブチギレの表情。ワッツ自身の技術もさることながら、またここに限ったことではむろんないが、顔面を凝視するべき時宜を正しく心得たアレンのカメラ差配が精妙に映画のギアをシフトしている。
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