[コメント] 細雪(1983/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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原作は箆棒に面白い。関西文化が上流婦人という虚構をいかに人に強いたかの詳細な記録であり、母親が思春期の娘に読んでおけとそっと勧めた作品と云われる。もう見合いの風習が廃れた現在は変わってしまったのだろうか。
小説世界で墨守されるのは階級制度であり、見合いをはじめとするしきたりである。谷崎は保守派だから関西文化を告発などしない。登場人物の受難を通じて、文化を守るための方策をこっそりと読者に伝授している具合である。ただその受難の強度が度外れなので、告発しているとしか読めなくなるのである。幸子は生理不順で股間から血を流し、妙子は病床で殆ど女ではなくなり、雪子が下痢をして小説は終わる。さらに隣人付き合いのなかでヒトラーへの信頼まで語られるのだ。
こうした側面を映画はすっかり消し去っている。別に市川崑が消し去ったのではなく、50年の阿部豊作品ですでに消し去られているのだが、本作はこれを漫然と踏襲している。上流婦人の維持という主題は冒頭のホルモン注射「B足らん」の件だけに残されているがその後は無視され続ける。美点もある。身分違いの駆け落ちをした妙子を原作は殆ど村八分にしているが、映画が(第一作の凸ちゃん同様)新時代の幕開けとして彼女をフォローするのは優れた解釈だろう(第一作は谷崎も観ているからお墨付きもあるのだろう)。しかしそれは、あの残酷な小説「細雪」の世界ではないのである。
この市川作品は何なのか。原作では端役でしかない長女の岸惠子を活躍させ、収束で船場の旧家との別れを惜しませる(これも原作にはない。中盤でさっさと渋谷に引っ越してしまう)のは工夫だが、何ということもない。岸と佐久間良子の丁丁発止と無口な吉永小百合の対比は、いつもの市川崑作品のように面白いがさして中身もない。旧二作にはあった洪水の件の省略は、古手川祐子の岸辺一徳への心情を半端なものにしてしまっているし、石坂浩二の吉永恋慕という原作にない付け足しに至っては阿呆らしいレベルである。桜や紅葉はフィルムに収めて豪華だが、有名な螢の描写を省いたのは半端の印象、しかしまあ、この美術が最大の見所なのだろう。本作は要するに東宝の要請により、スノッブなご婦人方を映画館に呼び戻そうとした作品と云う外ない。
本作は「東宝創立50周年記念映画」であるが東宝の女優はいない。岸は松竹(にんじんクラブ)、佐久間は東映、吉永は日活。さらに三宅邦子は松竹、三條美紀は大映。ここまで外していると六社協定批判の含意かと疑わさせられるが、東宝がそんなことする訳はない。江本孟紀に至っては俳優ですらない。岸は引越しのために広げられた着物を評して「こんなええもん、このご時世ではできしません」と戦争批判をするのだが、これは邦画の自己批評のように聞こえるのだった。
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