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[コメント] ジャンゴ 繋がれざる者(2012/米)

無法者と自由人。因果の鎖の絡み合いと、その倫理性。だが、アクションの快楽、娯楽としての殺戮と倫理との、卵が先か鶏が先か、に似たモヤモヤ感。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







賞金首が息子と耕作をする穏やかな光景を俯瞰しつつ、躊躇っているジャンゴに、シュルツが、「むしろ、息子に看取られて死ぬなんて幸福なくらいだ」と諭すシーンでシュルツは、手配書を取り出して、ジャンゴに、賞金首の罪状を音読させる。ここでシュルツが、字が充分に読めないジャンゴに読み方を教えて手助けする、という行為が加わることで、彼が教育者の立場に立っていることが、より印象づけられる。

これに先立って、シュルツが保安官を射殺したシーンでも、次いで現れた連邦保安官に向かって、二年前に着任したこの保安官は三年前には牛泥棒だったと告げ、手配書を示し、さあ賞金を払っていただこう、と要求する。この人物は、初登場のシーンから一貫して、自分は法の執行者だということを強調する。

法の執行者であるが故に、奴隷の持ち主である富豪らに、偽の商談で取り入るという詐欺を働いても平然としていたシュルツ。だが、その詐欺がキャンディの前で破綻したとき、飽く迄も契約という法に従ってブルームヒルダを渡そうとしているキャンディを射殺する。キャンディは、契約書も交わし、最後に握手を求めたとき、「ここでは握手なしには契約は成立しない決まりなのだ」と、法を楯にする。そのキャンディを射殺し、「すまない、我慢できなかったんだよ」とシュルツ。何が彼をそうさせたのか。そのとき、犬に食い殺される黒人奴隷の姿がシュルツの脳裏にフラッシュバックしていた。アメリカという国で、黒人がどんな扱いを受けているのか、その現実を眼前にした衝撃。それが、シュルツに法を破らせ、ジャンゴに、抑えろと告げていた個人的な復讐心を、自ら解放する結果を産む。

このシュルツの一撃は、普通に商談としてブルームヒルダを買い戻せたはずの状況を、一気に、地獄のような殺し合いへと転じてしまう。シュルツは、射殺されることで早々に退場し、ジャンゴが孤軍奮闘することになる。だが、あの奴隷が食い殺されたのは、シュルツが彼を買い戻そうとしたのをジャンゴが制したからだ。自分の妻奪還という目的のために、奴隷制度の暴虐を放置した報いという意味が生じるわけだ。

だが、ジャンゴがそこまで演技を徹底したのは、シュルツにそう命じられたからでもある。ジャンゴが「いちばん悪辣だ」と嫌がる「奴隷商人のニガー」を、「なら悪辣に演じることだよ」と説得するシュルツ。目的を果たすために、憎むべき制度の内側に組み込まれた人間を演じるということ。シュルツに、やりすぎではないかとたしなめられたジャンゴは言う、「あんたは俺に、賞金首を息子の前で殺させた」。

ジャンゴもシュルツも、一方的に、躊躇なく悪者を退治する側のように、一見すると映じるが、実は、その行為を遂行するために彼ら自身が手を染めた罪に、律儀に落とし前をつけている。この厳密な倫理性もまた、この作品の際立った点なのだ。

キャンディ邸での撃ち合いの末、妻を人質に取られたジャンゴは投降し、その後どのような扱いを受けたか。逆さ吊りにされ、局部を切り取られようとしていたとき、体制側黒人の権化としてのスティーヴンが現われ、もっと酷い目に遭わせてやると告げる。局部を切り取ってやったところで、出血によって七分くらいで絶命してしまう。手ぬるい、と。それでどうなるのかというと、酷い環境で一日中酷使される労働現場に売り払い、そこで、最後に倒れて、ハンマーで頭を砕かれる日まで働かせる、というのだ。要は、どんな拷問よりも、普通に黒人奴隷として売り払われるということの方が、より過酷であるという、アメリカという体制の絶対的な恐怖。

自分たちを檻に入れて運んでいく白人どもを騙してジャンゴが脱出するシーンでの、渡された銃を即座に白人全員に撃ち込む素早さ、躊躇のなさは、映画的な驚きと美学が閃き、数ある射撃シーン中の白眉。ジャンゴは、馬を奪ってキャンディ邸へと疾走するのだが、馬に鞍を着けない。解放された馬と共に疾走するジャンゴ。そして、黒人奴隷を犬に食わせた連中に、その復讐だと告げて全員を射殺するシーンは、肉体が吹っ飛ぶその激しさもさることながら、自分が男を見殺しにした落とし前をつけるという、倫理性の極みでもある。

シュルツの遺体を見つけ、ドイツ語で別れを告げるジャンゴ。「また会う日まで」を意味するが故に、「二度と会いたくない」キャンディに対してシュルツが拒んだ挨拶。ジャンゴの妻は、その「ブルームヒルダ・ヴォン・シャフト」という名そのものが、ドイツ語という、アメリカの外部でもある。また、犬に食い殺された男につけられていたのが「ダルタニアン」という、フランスの小説の登場人物であること。会話劇に優れたセンスをみせるタランティーノは、そもそも話されている言語が何か、というところに、「アメリカ映画」であることの快楽の陰にある罪に対する自覚を示している。

言語といえば、奴隷商人を装ったジャンゴがキャンディ邸のバーで酒を飲むシーンで、名を訊かれ、「ジャンゴ。D-j-a-n-g-o。Dは発音しない」の決め台詞を吐くが、Dへの言及が、単に名乗るのではなく、その綴りについて知っている、つまりはシュルツの教育の成果、そして、教育と無縁に置かれていた奴隷ではもはやないという矜持が感じられる。だからこそ、再びキャンディ邸に戻ってきたジャンゴがキャンディ家の者たちを返り討ちにするシーンでの、ジャンゴの一物を切り取ろうとしていた男が「ドジャンゴ!」と怨嗟の声を吐くのに対し、「Dは発音しない」という言葉と共にとどめを刺す行為は、銃という暴力による勝利のみならず、倫理的な勝利を印象づける。

とはいえ、射殺の躊躇いのなさは、「アクション映画」としての瞬発力として魅力的ではあるが、その倫理的な潔癖さは、奴隷制度というものが絶対悪としてではなく、制度として存在していたその時代に対する歴史的な視点が完全に欠落しており、現代の倫理観で一方的に裁くという、純粋さと表裏の幼稚さも感じさせられる。『イングロリアス・バスターズ』のナチと同様、躊躇いなく殺戮という娯楽を享受するために、歴史的に実在した「絶対悪」を設定している観がある。スパイク・リーが不快感を示したのは、それを嗅ぎとったからなのかも知れない。実際、ユダヤ人に「『イングロリアス・バスターズ』は、もちろん喜んで観るよね!」などと言う気にはなれないし。どこか、歴史を玩弄しているようにも見えてしまうのだ。

シュルツが、歯医者を開店休業して賞金稼ぎをしているのは、キャンディが黒人差別の根拠として振りかざす骨相学への抵抗の暗喩なのだろうか。

(評価:★3)

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