[コメント] リンカーン(2012/米)
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ダニエル・デイ・ルイスの迫真の演技に不満のある人は少なかろう。レンブラントの絵画を思わせるカミンスキーの光と影の使い方にも惚れ惚れとさせられる。多彩な顔ぶれの配役も適材適所、実に申し分ない。だが、物語はあまりにも小さすぎる。それは、この映画が南北戦争を俯瞰するものではなく、奴隷解放のための下院における政治的な駆け引きのみを描いているためだ。アクションやサスペンスによって観客を魅了してきたスピルバーグが、本作ではその持ち味を抑え、議会政治の言葉の応酬にレンズの焦点を合わせている。これは監督の「成熟」なのだろうか? 当初、本作は南北戦争全体を描く予定だったが、脚本の第一稿で4ヵ月の話となり、最終的な脚本では1ヵ月の話に短縮されたという。では、スピルバーグは何故このように撮ったのか? 若き日にリンカーンが見たであろう、重い鎖に繋がれた奴隷の長い列の場面からなぜ映画を始めなかったのか。米国史上、最多の犠牲者を出したこの内戦で、北軍が行った残虐な焦土作戦をなぜ物語の中核に据えなかったのか。想像するに、10年にも及ぶ長い脚本作り(ちなみに、本作の脚本家は監督と同じユダヤ系米国人だ)を経てもスピルバーグが関心を持ち続けることができ、かつ描きたかったものは、政治家リンカーンの中に見出された自分自身の影、すなわち孤独だったのかもしれない。完成したこの映画では、議会工作を通じて党内や他党で反対している者を自分の側にいかに取り込むかがメイン・ストーリーとして語られている。政治家としての本音と支持者に対する建前のはざまで、あるいは個人的な信条と党派の利害の間で揺れ動く議員たち。飴と鞭を使い分け、また限りなくグレーな手法も交えながら、リンカーンは悲願の奴隷解放(合衆国憲法修正13条の可決)を成し遂げる。『ジョーズ』や『シンドラーのリスト』など、スピルバーグが過去の作品の中で繰り返し描いてきた「目的を果たすためには敵を取り込むことも辞さない」というユダヤ的な価値観が、ここではリンカーンの唱える主張に重ね合わされ、〈普遍的な正義〉として語られている一方で、戦争責任の所在についてはほとんど描かれていない。実際のところ、南北戦争の勃発は奴隷解放論者リンカーンの大統領就任が契機となっている。戦場に累々と築かれる死者や焼け野原となった国土。その責任の一端はもちろんリンカーンにある。しかし、スピルバーグはそれを描かない。妻や息子との確執さえも、〈正義の人〉リンカーンの孤独感を強調するためだけの小芝居に留まっている。つまるところ、この映画はスピルバーグによる〈政治の教科書〉でありながら、ハリウッドの中でユダヤ系のクリエイターとしてしたたかに戦い、現在の地位を築くに至った監督自身の〈処世術の教科書〉のようなものだ。民意(といっても制限選挙による一部だけの民意だが)を背景に、議会の中で独裁者の如く強権を奮って修正案を押し通すリンカーンの姿は、ハリウッドに君臨するスピルバーグその人でもある。映画の冒頭で兵士たちと接するリンカーンの醒めた態度に滲む深い孤独は、そのままスピルバーグ自身の孤独といってもよいだろう。
しかし、目を背けたくなる歴史から意識的に距離を置き、テクニカルな議会工作に焦点を絞った今回のスピルバーグの撮り方は好きにはなれない。まさか自国の内戦が欧州のホロコーストよりも身近すぎて正視したくなかったという訳でもあるまい。南北戦争を十全に映像化できる力量と地位を有していながら、スピルバーグが米国の暗い歴史を正面きって描くことを避け、 本作を自身の孤独の投影、あるいは単なる教科書的な物語に落とし込んでしまったことを残念に思う。
−−−−−追 記−−−−−
2018年の『レディ・プレイヤー1』を観て、少し安心した。
原点に戻ることで、スピルバーグは長い孤独のトンネルを抜けることができたのだ、と。
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