[コメント] 真夏の方程式(2013/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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重治(前田吟)が、煙突に濡れたダンボールを乗せるのに恭平少年(山崎光)を使ったのは、自身が膝を悪くしていて、高所に昇れないという理由があったわけだが、少年には事の真相は知られまい、という安心感、というか、或る意味では少年の推理力を見くびっている傲慢さが、少年の生涯に十字架を背負わせることになる。妻の節子(風吹ジュン)を、遺体遺棄はまだしも殺人の共犯にするのは居た堪れなかったのだろうけど。窓を塞ぐ理由として「ロケット花火が部屋に飛び込まないように」というのを使う必要上、ロケット花火を一緒にする相手として不自然さがないのは、少年以外にいないだろう。また、妻に煙突を塞がせたりすれば、さすがに妻は怪しむだろう。
このトリックによって殺害された刑事(塩見三省)は、仙波(白竜)の自供を信じてしまったという咎はあるのかもしれないが、悪意のある人間ではまったくない。だが重治は、罪悪感を覚えていないわけではない様子だが、殺すのが当然であり仕方がないと確信しているようで、躊躇いというものがまるで感じられない。それが「家族の秘密を守るため」という美談として描かれ、映画と重治の共犯関係に観客も加えようとしているのが薄気味悪い。
三宅伸子(西田尚美)殺害の真犯人である成実(青木珠菜⇒杏)当人が、秘密を抱えることに苦しんでいて、それならいっそ自首したほうが彼女自身が救われるのではないかと思えてくるのだが、湯川(福山雅治)は、恭平がいつか真相を知りたいと思ったとき、すべてを明かしてやってほしい、と言う。しかしその恭平は既に、湯川の影響もあって自ら推理を働かせて事の真相に気づきはじめており、そのことで苦悩している。それなら成実が湯川の言うその役割を果たすべきは今だろうと思えるのだが、映画はその辺りをまったくフォローしないまま終わる。
資源開発の是非同様に、恭平と成実の今後を宙ぶらりんのまま置くのは、観客が一緒に考えるようにと促がしているのだろうし、恭平がまったく何も気づかないまま能天気にしているようでは、却って陰惨さが増すとも言えるので、この辺は微妙なところではある(環境破壊と開発の是非では、フジ系の作品で言うと、『容疑者 室井慎次』のスピンオフドラマ『弁護士 灰島秀樹』で似たような話が出てきたのを連想)。
冒頭の主観ショット長回しによる三宅伸子刺殺シーンは、その映像の質感も相俟って、どこか悪夢的な幻惑感がある。けっこうな距離を足早に、一心に標的へと向かっていき、標的と対面すると躊躇なく、事を実行する。非常に「明確な殺意」を感じさせるシーンだが、果たして、少女・成実にそこまでの殺害動機があったのか、説得力がない。突然、家に押しかけられ、事情のよく分からないことを一方的に言い立てられたあとで勝手に立ち去られる。少女は激しく戸惑いはするだろうが、「殺そう」とまで思うか? 尤も、そのときに伸子が、成実一家の家族写真を奪っていく、という行為に、「家族が奪われる」という意味合いを持たせたのだろうとは思うが、それは映像演出の論理という範囲内に限った説得力しかなく、プロット上の説得力はまるで欠けている。
倫理的に疑問を覚える箇所がある点は、前作『容疑者Xの献身』と同様。原作はいずれも未読ではあるが、正直、「東野圭吾、この人、何なん?」という思いは拭えない。が、前作の場合は、「数学の天才」という、どこか人倫の彼岸に生きている一人の男が、体温の感じられる人間の世界との狭間で呼吸している感触が、作品世界を成立させていると感じられたが、今回は終始、生活臭のする普通の人々の営みの範囲内ですべてが起こるので、その倫理的な瑕疵も、無視できない大きさに感じられる。
ただ、湯川と恭平の行なう、ペットボトルロケット発射実験のシーンは、この作品全体を肯定させるような力強い美しさがある。特に感動させられるのは、携帯電話のテレビ電話による、海中の観察。携帯電話という、今どきの子供にとって日常的なデジタルツール(それを印象づけるのが、恭平が電車内で見知らぬ爺さんと、電話を切れ切らぬと揉め事になるシーンだろう)を介して、手つかずの自然の美しさに感動するということ。ここでは科学と自然は対立の構図にはなく、テクノロジーは、少年と海との距離を埋めている。液晶画面に海中を見るのみならず、海中のロケット内に入れられた携帯電話の画面には、満面の笑顔で感動している少年が映っている。テクノロジーを通じて、少年は海に潜ったのだ。(因みに、湯川と東京の吉高由里子、北村一輝も、パソコンの液晶画面越しに会話をするのだが、東京と玻璃ヶ浦を行き来する吉高に距離感がまるで演出されておらず、シーンによっては、どちらにいるのかすぐに把握できない箇所さえあることには、不満しかない)
湯川の言う「真理」としての科学、それの発言権が与えられていない様子の討論の場、開発推進派と反対派の「距離」だけが顕在化している場に湯川は出ず、少年との時間を過ごし、ロケットを飛ばす。一方、重治が恭平に、事件の真相という「真理」を伏せて共犯者にしてしまうシーンでは、二人は「ロケット」花火を上げている。この二つのシーンは、恭平にとっての陽の記憶と陰の記憶、晴れた青空と夜、真理の発見と真相の隠蔽、という対照を成している。
互いに、相手を思いやるが故に秘密を抱えている川畑一家は、結局はその秘密の暴露、「真理」によって、互いの距離を埋め合う。そして映画の冒頭と終幕には、距離を制覇する文明の利器である電車のパンタグラフが発する火花(花火との連想を誘っている?)が添えられている。この火花とペットボトルロケットに象徴されるような、夏休みの科学実験のワクワク感が、倫理的にシリアスな問題意識と同居し、少年の成長物語と、自然と科学の共存という大きな課題をも、同時に描くということ。テーマの普遍性という点に関して言えば、『容疑者Xの献身』に対して「前作越え」を見事に果たしたと言える。
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