[コメント] 東京戦争戦後秘話(1970/日)
原正孝の映画だ。あいつ=自分という主体と客体が重なることで、現実と過去の風景を追いつめた。しかし、この映画は全く非現実的な欠陥がある。固有名詞を失った人物が錯綜しているからだ。この頃多くの貧しい映画作家(大島渚を含む)が固有名詞を失う恐ろしさについて映画化している。『砂の女』なども同様であろう。
個人と社会、主体と客体、男と女だったり、いずれも(やや抽象的ではあるが)社会変化とその闘争の狭間で失ったり、失いそうになったりした自分について考えることが流行していた。
しかし、これは実に無益なことで、現実は一秒後に過去へと成り下がるのだ。それをこの映画のような、あるいはこの頃のATGなどで作られた多くの作品で、追い求めようとしていたわけなのだ。
今見ると、茶番だ。不毛の世界であり現実ではない。しかし、この脚本を担当した原正孝のような若い人達が真剣にこのようなことを考え、日本の未来について考えていた。これも事実であり歴史なのである。
この映画を囲むスタッフも秀逸である。原正孝を包むようにスタッフを充実させ、大島渚は未来への挑戦をしている。この物語には整然とした理屈とか格別な映画表現などは存在しないのだが、映画は淡々と流れ、結論も自覚も促そうとしないで終わる。ラストも意外ではあるが、予想できない結末ではない。こいういうイデオロギーがかつて存在したことを自覚する。
大島渚の作品には常に”日本”という国が存在している。それは国に対する反発でもなく、国政を迎合するものでもなく、あくまでも国=個人、という対立軸を中心に据えた客観性を追い求めるものである。この姿勢はいまだに継続されているし、これらの作品もそのカテゴリーの一部だ。国を意識できる作品に巡り合うことが、最近極端に少なくなった。
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