[コメント] 儀式(1971/日)
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大島監督の作品には際だって二つの傾向が存在する。
一つは超が付くリアリティ。人間の感情など簡単に押しつぶされてしまう現実というものを前に、あがき苦しみ、やがてどんな悲惨であっても現実を受け入れざるを得ない人間というものを描いたもの。そしてもう一つは極めて観念的な、いわば前衛芸術のようなもの。監督の初期作品には前者が多く、中期にはいるとこれが混じり合ったような作品が多くなり、後期になると、最早観念だけの作品に移行していくわけだが、本作はその中期的な作品と言っても良いと思う。
封建的な田舎を舞台に、やりたい放題の旧家、その中でも、まるで王様のように君臨する家長と、それに反抗する新参者の、精神的な戦いを主軸に、その周りで歪んでいく家族関係や、近代化の波が押し寄せ、それによる家族そのものの崩壊と言ったものを、事実としてだけでなく、主人公の脳内での葛藤をも同時に描く。
物語を通して観ていると、手塚治虫の漫画「奇子」っぽさが強いが、よりエロチックに、より観念的に話は持って行かれている。
これは常に反抗者たらんとした大島監督の最後の反抗だったのかもしれない。古くからの日本の家長制度は、近代化の名の下に「悪」とされてきたが、事実それは根強く残っているではないか。それは普通の人の家と言うよりは、国家と、国政を握る政治家との対比として「家」を観ているような気にさせられる。
そうすると、ここでの登場人物、特に自殺してしまったり逃亡したりするのは、国政に関わり、その不条理に耐えられなかった人達の暗喩として登場すると考えることも出来る。主人公の名前からして満州男だし、その父は韓一郎である。かつて日本が植民地とした国をわざわざ付けているわけだし、他にも忠、節子、律子など、昔の日本が大切にしていた観念を名前に付けたキャラが多く登場している。それらが皆家長である一臣の専制的な振る舞いに傷つき、時に反抗してつぶされてしまう。その家長の一臣自身がそもそも戦時中の内務官僚で中央からは追放令を受けている人物である。これを東京裁判で戦犯として処刑を免れた政治家に見立てるのは論理的にも無理がないだろう。
そして一応ここでは語り部として登場するのは満州男だが、実質的な主人公は輝男の方で、彼こそがこの旧態依然とした家に対し、感情的ではなく論理的に反抗を企てようとした人物として考えられるはずだ。あるいは大島監督自身が自らを投影したのがこの輝男だったのかもしれない。
しかし結果的に輝男は死ぬことになる。論理の力では家をつぶすことが出来ず、さりとて狂気を装っても、それも儚く終わる…
これ以降大島監督作品が耽美の世界に入り込んでいったのは、あるいは本作こそが監督にとって、これまでの作風からの決別となっていたのかもしれない。
…考え過ぎかな?
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