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[コメント] マックス、モン・アムール(1986/仏)

動物愛、non・人類愛
いくけん

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







お猿と美女の恋愛?ひょっとして、お猿と美女の『愛のコリーダ』?大島渚ジャン・クロード・カリエールブニュエル一家だよ!)ともあろう者が、何とも突飛な作品を作ったもんだ。うーん、難解。しかし、いかにも優雅。凱旋門での祝福シーンが、妙に直裁である点も気に掛かるし。何らかの大切なテーマの隠された映画なんだろうけど。初見の時は、正直、こんな印象でした。そして、最近(10何年ぶり、笑) ある考え が浮かんで来ました。

もう、お気付きの方もいらっしゃるかも知れませんが。この映画のお猿さん(マックス)は、動物は動物でも、人間(女性)の方で、同性愛のメタファーだと思います。即ち、女性対女性のレズビアンの映画では、即物的で、余りにも感慨がなく、また、当時80年代では、まだ、同性愛(ましてや、レズビアン)←(一応ここではこの書き方をします。)を直接描いた作品が、少なかった(タブーだった。)からでしょう。

では、マックスが、猿でなく人間(女性)であり、この映画が同性愛を支持したもの、と私が考えた根拠を挙げていきます。

1 まず、全てを見通しているかの様な、極めて印象的な瞳を持つシャーロット・ ランプリングの起用です。女性からみても素晴らしく魅力的な女優だと思います。そして、相手の知性とか、全人格に惚れこむタイプに見えます。何より、彼女の瞳はマックスを超えた空間を見つめています。

2 連続したカットなのに、マックスが本物の猿であったり、着ぐるみだったり、 ましてや、大きさがちがったり、ゴリラだったり、チンパンジーだったりする点です。マックスを象徴的なものにしたかったのだと思います。

3 「種を超えた愛は存在するのか」「犬を可愛がる感情とは違った」「人間と猿との愛 は存在しえない」「あれば、一冊の本になる。」とのセリフです。

4 公開当時の大島渚のTV(「朝まで生テレビ」とか)での大胆な発言です。製作者セルジュ・シルベルマンの話に及んでのことです。大島「彼は大製作者で、立派な人物です。彼はゲイで、公言しており、ヨーロッパでは有名な話です。俺も内心、口説かれるかと、心配していたが口説かれなかった。正直、悔しかった。」←(スタジオ爆笑)大島渚ともあろう人が、公のテレビという場でこんな発言を、普通するでしょうか?私には、暗に、この映画のヒントなり、背景となる情報を与えてくれたのだと思います。

5 冒頭に述べたように、シャーロット・ランプリングとマックスが、パリの凱旋門を車で通過し、路上の人々が歓声をあげるシーン(世界の目抜き通りで!)が、何とも唐突に出てきます。このシーンが私には、70〜80年代頃のニューヨークの大通りを、ゲイの人々が、同性愛を謳い、パレードする光景に重なりました。

考えてみるならば、人間の恋愛が、男女間のそれにのみ(国家から)制約されるのは、おかしな話です。それぞれの人々の性衝動の発露の結果、男と女、男と男、女と女 の恋愛が生まれ、それが、他人や国家から干渉されないのが当然でしょう。そうでないと不平等すぎると思います。

以上のような考えで、この映画を観ていると、アンソニー・ヒギンズの端正な顔立ち、大島渚の端正な演出、ジャン・クロード・カリエールの端正な脚本、ラウール・クタールの端正な撮影が、「そうだろう。そうだろう。」と私を 責めてきて、思わず、「はい。分かりました。先生方!」と、答えずにはいられない快感を味わいました。

同性愛への偏見をなくす、そして男女差別を克服する、合理的な判断能力を一人一人が身に付けていけば、世界はより良い方向に進むでしょう。そして、ラストシーンにある警察犬の吼える声(国家による個人の自由の抑圧)も小さくなっていくでしょう。←(このあたり、ヨーロッパに行っても大島節全開でうれしい。)

余談;タイトルデザイン(担当は誰?)と後ろに流れる音楽(ミッシェル・ポルタル)は、私の大のお気に入りです。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (9 人)りかちゅ[*] tkcrows ダリア[*] ルッコラ トシ[*] 水那岐[*] muffler&silencer[消音装置] 太陽と戦慄[*] ina

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