[コメント] ビッグ・アイズ(2014/米)
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バートンは元より絵画「ビッグ・アイズ」シリーズのファンだったらしいとは聞くものの、そのフィルモグラフィを促進してきたところの映画作家のオブセッショナルなモティーフをここに見出すことは難しい。もっとも、社会的弱者に対してシンパセティックに語られる物語はバートンの信念に適ったものに違いなく、またクリストフ・ヴァルツの造型に着目してみたとき、『エド・ウッド』のジョニー・デップや『ビッグ・フィッシュ』のアルバート・フィニー/ ユアン・マクレガーに連なる「嘘つき男」の系譜を彼に認めることもできるだろう。殊に『ビッグ・アイズ』の脚本を著したのがスコット・アレクサンダーとラリー・カラゼウスキーであると知れば、このウォルター・キーンにエドワード・デイヴィス・ウッドJr.のダークサイドを見て取るのもあながち不当ではないはずだ。『ビッグ・アイズ』を「ティム・バートンらしくない」という由でもって軽んじる評に対しては、以上および淀みないストーリテリングのアルチザン的達成を認めることによって二重の庇い立てを企もう。
あるいは、これがやはり「ティム・バートンらしくない」として、それを肯定的に読み替える術も試みたい。たとえば『ビッグ・アイズ』は明らかにバートンにとって珍かな「夫婦」の映画である。ここで「唯一の」ではなく「珍かな」という形容に留めた私の念頭にあるのは云うまでもなく『ビッグ・フィッシュ』だが、それが人間関係のドラマにおいて「父-息子」(アルバート・フィニー-ビリー・クラダップ)に重きを置いたがために「夫-妻」(アルバート・フィニー-ジェシカ・ラング)の在り方がいささか都合よく理想化されがちだったのに対し(それがまた感動的でもあったのですが)、『ビッグ・アイズ』が描こうとした複雑な夫婦像はいやましてチャレンジングだ。ひとつところに留まることをよしとしない作家の前進的態度に声援を送る一方で、これを「ともに創作に携わる夫と妻」の映画として、ザッカリー・ハインザーリング『キューティー&ボクサー』やサーシャ・ガヴァシ『ヒッチコック』などの傍らに並べてみるのも一興だろう。と、ここで少々迂闊にも「ヒッチコック」という固有名詞を呼び出してしまったついでに次も記しておくことにする。
『ビッグ・アイズ』はまぎれもなくバートンのフィルモグラフィで最も多くアルフレッド・ヒッチコックに糧を求めた映画である。これについてはまったくヒッチコック・マナーに則った自動車内カットのカメラ・セットアップとロバート・バークス『北北西に進路を取れ』的色彩美を指摘すれば事足りるはずで、「キーンの法廷劇」が『パラダイン夫人の恋』である、などは枝葉末節の符合に過ぎない(ヴァルツを法廷劇に起用して長広舌を演じさせるという妙案には世界中の映画監督が臍を噛んだに違いありませんが)。しかしながらバートンが『ビッグ・アイズ』の創造過程でヒッチコック的細部を欲した理由とは何か。素直に考える限りで得られる回答は、これがヒッチコック的主題を孕んだ物語であるから、というものだろう。それすなわち「愛した(信頼を寄せた)男が正体不明」という、とりわけ中期ヒッチコックにしばしば見られる不安・恐怖の型である。これを最も直接的かつ整った体裁で作品化したのが『断崖』であり、「夫」を「叔父」に置き換えれば『疑惑の影』が、「嫁ぎ先」そのものに不信を見れば『レベッカ』が生まれるだろう(とすれば、『ビッグ・アイズ』の邸宅火災も『レベッカ』かしら)。
バートンは彼の個人史にとって小さからぬ意義を持っているらしい絵画とその作者を題材に選びながら、いかにもバートニックな男性像の裏面を織り込みつつ、「恐怖の対象としての男性」というヒッチコック・ヒロインが被る災厄から「女性の自立」という題目を抽出展開する。したがって、云うまでもなくエイミー・アダムスはブロンドである。
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