[コメント] ディストラクション・ベイビーズ(2016/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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常に、最後には喧嘩相手を制圧してしまう柳楽の拳は、その目的を達する代償として、その拳そのものが痛々しく赤く染まっている。彼にとって殴り合いは、他者との相互的なコミュニケーションであるようだ。もちろんそれは、柳楽から一方的かつ理不尽に開始されるのだが。
一方、柳楽に感化される菅田将暉は、そうした相互性など求めていないらしく、強そうな相手を選んで挑みかかることはしない(強そうな相手に対しては、挑発するだけであとは柳楽に任せてしまう)。むしろ、その辺をたまたま歩いていた女子生徒に襲いかかり、「女を殴ってみたかった」などという情けない台詞を、嬉々として吐く。その後も、買い物帰りらしい、ふくよかな女性への暴行など、彼の暴力は平和な日常へと襲いかかる類いのもの。柳楽の暴力にはまだあった、ストリートファイトとしての緊張感や祝祭性など微塵も無く、代わりに後味の悪さがある。
そんな菅田も、柳楽に対しては共犯者として相互性を求めている様子だが、柳楽は彼自身の自己充足的な狂気から出ようとはせず、言葉や視線によるコミュニケーションも発しない。菅田は次第に苛立ち、さらったキャバ嬢(小松菜奈)が車を暴走させ衝突させるに至るともう、息も絶え絶えに、もういい、と、ギブアップをする。そしてその直後、女を殴る情けない男は、女の復讐の暴力によって、呆気なく死ぬ。
この女は、菅田に車の運転を強要された際、菅田によって殴り倒された男を轢いてしまうのだが、菅田に命じられるままにトランクに押し込めていたら、息を吹き返した男が吐いた血で洋服を汚され、とっさに男を絞め殺す。「俺はそこまで言ってない……」と呆れる菅田だが、彼や柳楽と違い、女が発動する暴力は、楽しみのためのものではなく、自らの身を守るためのものなのだ。そしてそれが、洋服を汚される、という些細なことで発動する点に、この女の本能が表れている。
女のそうした極端な保身は一貫している。万引きを繰り返す、つまり身銭を切りたくないという身勝手さに始まり、スーパーで万引きGメンおばさんに捕まった際には、堂々と商品を勝手に店内で食っていた柳楽の方を捕まえろ、と、そちらに注意を向けさせた隙に逃走。万引きを見かけた少年に脅されてキャバクラに連れ込んだあとは、その責任を同僚の中国人女に押しつける。菅田をブチ殺したあとは警察に、完全なる被害者を装い、彼女自身は暴力性とは縁の無い、人畜無害な一般ピープルのように振る舞う。
彼女を演じる小松の、方言のいい加減さがどうにも気になるのだが、そうした、方言話してます風の演技で充分だと言わんばかりの皮相さが却って、表面を取り繕うばかりの空虚なキャバ嬢と重なってしまい、妙なリアリティを獲得しているようにさえ思えてしまうから困る。方言は方言で、地方でくすぶっている若者の鬱屈が爆発する、というこの映画の世界観を構成する、大事な要素なんですがね。
最終的には、柳楽は弟(村上虹郎)と共に暮らしていた場所に帰ってくるが、それはちょうど祭りの夜。兄弟の親父代わりらしいでんでんは、警察による聴取の中で、「十八ともなれば、神輿を担ぐ年」だからどうとか言って柳楽を追い出したと話していたが、一人前の男になった証しらしいその神輿担ぎの祭りそのものが、夜の闇に提灯の灯りが妖しく輝く、男の暴力性の発動のようでもある。
そんな祭りの夜に、柳楽が最後に倒すのは、これ以上強い相手というものは無さそうな国家権力、つまりは警察官。もっとも、柳楽の前に現れたその警察官は、全く強そうに見えないのだが。つまり強さとは結局、具体的に現出する肉体的な強さとして以外は、抽象的であらざるを得ないということか。
ところで、菅田は、狂人柳楽をスマホのカメラで面白おかしく撮っていたら、いつの間にか柳楽の狂気の方へと転落し、カメラも、自ら凶行に走る彼自身の主観映像へと変じてしまうのだが、傍観者というテーマは全篇にちりばめられている。キャバ嬢の送り迎えをしている運転手は、キャバクラを取り仕切っているらしい、反社会的勢力風の兄さんたちが柳楽に殴られるのを車内から、傍観者として見ていた。それが、犠牲者がフロントガラスに押しつけられると途端に動揺し、逃げ出す。そして柳楽&菅田の逃避行に際しては、彼自身もボコ殴りされて車とキャバ嬢を奪われる。柳楽弟つまり村上が、友人たちとの断絶を決定的に痛感したであろうシーンでは、友人たちが、ネットに流れる柳楽の動画をネタとして享受している。
思えば、商店街で無関係な人々に次々襲いかかった柳楽&菅田とは、一般ピープル=傍観者の存在を許さず、一人残らず彼らの祭りの渦に呑み込もうとした連中、だったのかもしれない。だが所詮、たかが二人のキチガイの暴力行脚。その凶行の現場に居合わせた人々もまた、「目撃者」として、巨大な傍観者=メディアの歯車として取り込まれる。その証言の中では、「スマホで撮影している人たちがいて」云々という話すら出ていたではないか。
終盤、ネット上でのおびただしいSNSユーザーどもの発言を画面に充満させるシーンがあるが、ここに来て急に飛び込んできた、紋切り型そのもののネット・イメージには気持ちが萎える。似たようなシーンを、『白ゆき姫殺人事件』でも見たような……。いや、むしろ『白ゆき姫殺人事件』はまだ、匿名のユーザーの向こうに、確かに誰かがいる、という生々しさを踏まえた上で、それがペラッとしたネット画面上で無責任にフラット化していく光景を見せてくれていた。
対して、この『ディストラクション・ベイビーズ』のネットは、あまりにも記号的に過ぎる。あんなシーンなんて無くても、菅田やその仲間どもが浮浪者・柳楽を勝手に撮影して楽しむさまや、時々挿し込まれるスマホの画面やメディア報道などで、傍観者の氾濫という事態は表わし得ていたはず。だが、そうして具体的な現場において捉えられた事件が、ネット上にネタとして拡散するさまを描く段になると、途端に抽象化。真利子哲也という人が、傍観者どもに対して傍観者的であることが露呈した格好だと言えるのでは?
傍観者、といえば、柳楽が最初の獲物であるギタリストを発見するまでの徘徊シーン、柳楽を背後から捉え続けるカメラは、獲物を求めて視線を彷徨わせている(であろう)柳楽の視線に追随することなく、ただ傍観的に背後から追うばかり。演出的に正解かどうかは知らんが、面白くはない。柳楽が初めてこちらを振り向いた瞬間の、凶暴な楽しみに飢えた表情には射抜かれるが、ここは、彼と視線を共有しているつもりでいた観客自身が、獲物として見つめられてしまう、といった驚き、裏切りがあればと想像してしまう。そのように、全体としても、柳楽&菅田+小松の暴力性に対し、突き放した目線でいるのか、共犯的でいるのか、その辺の駆け引きの妙味を求めてしまうのは、贅沢だろうか。
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