[コメント] クリーピー 偽りの隣人(2016/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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犯人が自ら手を下さない教唆犯、というキャラクタは『CURE』の萩原聖人とつうじるのであるが、レベルはまるで異なる。『CURE』が画期的だったのは、「あんた、誰だ・・・?」という問いが、刑事→教唆犯人というベクトルではなく、教唆犯人→刑事+観客というベクトルで「相手のアイデンティティを崩壊させることを狙って」行われていたことだ。つまり、自分の外部にあると思われていた「得体の知れない何か」が、実は自分の「内部」にあり、自分が「得体の知れない何か」に変換されてしまう恐怖を描いていたこと。更に進んで、人は空っぽの「器」に過ぎない、ということに気づかされてしまった地平には「恐怖」や「罪」という概念すらない、という極限的虚無を緻密に描いていたことだ。つまり殺人は普遍的に、いとも当然に行われうる、という事態のダイナミズムがあったことだ。
ここまでやってしまったことを知っている身で『クリーピー』を観ると、だいたい全てが想定の範囲内というか、作劇の指向性としては、外部にいるわかりやすく得体の知れない存在に対して「あんた誰?怖いですね怖いですね」と言っているだけで、勿論この手の映画の中ではレベルは高いのだろうが、少なくとも観客としての私は高みの見物を決め込むことが出来てしまうレベルだ。香川が相手を追い詰め、絡め取り、取り込む手法はあくまで此岸の手口で、理解できないものでは全然ない。多くの人が此岸で「怖い」と感じることができる。それがこの映画の商業ベース上の長所であるが、少なくとも『CURE』を知っている私にとっては大きな短所だ。おそらくは多くの人が何が「怖い」のかわからない、という『CURE』の構成はとても恐ろしいものであり、そのように映画を仕組む黒沢監督には期待してしまうのである。この映画には彼岸に取り込まれる恐怖はない。局地的な見世物としての「恐怖」でとどまってしまっている(この「局地」感が最も残念な部分で、蛇足なエンディングに表れている)。
『CURE』は私が観た中で「危険」という感想を抱いた唯一の映画だった。これはただの商業映画だ。取り敢えず原作の浅さのせいということにしておく。
技巧的なところは相変わらずで、取り分け「音」と「風」の不穏がすごい。「作業」を執拗に描くのも良い。だが劇伴は最悪だ。やっぱりここはゲイリー芦屋でなければならない。西島も大根で、作劇、商業的意図はわかるがやはり空虚な狂気をたたえた役所広司が懐かしくなる。
これってつまり『CURE』観てればいいじゃん、ってことなのよね。
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