[コメント] シン・ゴジラ(2016/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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樋口真嗣の『進撃の巨人』実写版に呆れ返った観客である自分は、この映画を庵野秀明個人の映画として認識するしかない。むしろ自分がこの映画を観る理由は、庵野秀明という男にしかなかった。
庵野秀明という作家の純粋性は、疑いようもない。正直な作品を作るためなら観客にDVかますくらいは致し方なしとする表現者であり、たとえ国を滅ぼすとしても零戦を設計する男なのである。先人たちが築いてきた特撮映画群は彼の精神の根幹を占めるものであり、やるとなったら死ぬ気で作るであろうことは容易に想像できた。「エヴァンゲリオン」の如き私小説とは少し事情が違うのだ、そもそもエバーが私小説であること自体が問題を孕んだアレな話ではあるのだが、まーそれはそれとして。
『シン・ゴジラ』は、庵野秀明が持てる才能と情熱の全てを注ぎこんで、メチャクチャ真剣に作った映画だった。オレなんか、庵野の真剣さの10分の1でも樋口真嗣にあればなあ、などと考えてしまうのだ。2人は同志的連帯でつるんだ才能豊かな仲良しオタクではあるが、作り手としてはまったく違うタイプの人間だ。
今作は本多猪四郎の『ゴジラ』(1954年)と同じく、日本人と怪獣ゴジラのファースト・コンタクトを描いている。これは重要な共通点だと思うのだが、劇中の人物はゴジラなる怪獣を知らない。ここにオレなんか小さな引っかかりを感じるのだが、当初は充分に対処可能な事故災害と認識されていた事案が次第に手に負えない事態に拡大し、政府の対応が追いつかず甚大な被害を出してしまう。さらに再上陸した生物は「想定外」の巨大さで、多摩川の攻防を経ても防ぎきれず都心への侵入を許してしまう、あたりの展開はゾクゾクするほど面白く、ズバリ言ってこれだけで大傑作と呼んでも構わないヴォルテージの高さ。これができる映画監督が世界にひとりでもいるのか。庵野秀明の面目躍如、日本SF大賞は早くも決まりなのである。
映画の基本的なスタイルは、「岡本喜八が撮る『ゴジラ』」となっている。岡本喜八は庵野の憧れの監督であり、すでに故人のためこの映画では写真出演という形で、『機動警察パトレイバー the Movie』における帆場暎一の立場に収まっている。喜八ごっこを重ねつつ、人間ドラマを物語る能力がなくドラマティックな感情芝居を演出する能力がないことを逆手にとって、刻々変化する状況の情報を積み重ねるばかり、演者は早口の棒読みで専門用語を羅列するばかり。台詞や明朝体字幕をただの情報と割りきって限界まで詰め込むことで、面白い異化効果さえ生んでいる。作り尽くされたゴジラ映画の枠組みで、世界中探したってなかなか見つからないほど極めて特殊な奇形の映画を作り上げている。アー樋口真嗣もこれくらい気が利いていたらなあ、しかしこういった方法論は庵野が誰からも相手にされてない頃から長年研ぎ澄ましてきたもので、他者がすぐ真似できる類のものではない。また樋口真嗣だって、特技監督として最高の仕事をしています。
2011年の東日本大震災の影響は避けられぬ。なにしろ当時庵野は鈴木敏夫に騙されて、同年7月に被災地でサイン会などやらされたのだ。隣に宮崎駿がいては、断るわけにもいかなかったのだろう。つまり庵野はあの現場で被災した同胞と触れあい、破壊の爪痕と復興の息吹を肌で感じてきたのである。この映画で庵野は人知を超えた国難に見舞われる日本を描き、それでも困難に立ち向かう日本人に希望を見出している。終盤でゴジラを追い詰めるのは自衛隊の練度、ビルの崩落、電車爆弾だ。兵器大好き! ビル大好き! 線路超好き! といったフェティシズムが、斯様な繁栄、都市のインフラを築いてきた日本人への讃歌に昇華されている。工事のおじさんありがとう! ビルは壊れる時が美しく、電車は爆発する時が美しい。破壊と滅びを通じてしか世界と接触できない、これぞ世界に類を見ない庵野の作家性だと思う。
しかし作家への信頼が揺らがずとも、無条件で映画を気に入るわけではない。むしろ真剣に作られた映画だからこそ、クソ真面目に観て感じた不満には文句をつけたいと思うのだ。
この映画には、ほとんど政府関係者しか出てこない。庵野にとっての日本とは要するに国家組織のことではないのか、との邪推が自分の中に生じるのだ。確かに総理をめぐる意思決定の過程や会議は面白く描かれている。しかしたとえば主人公たる矢口が、国難の国難たる厳しい場面を自らの体験としたとは思えないのだ。瓦礫を前に立ち尽くしただけだ。彼の動機がいまひとつ不明なので、クライマックスの演説もスベり気味なのである。この映画には、死がない。死が、言葉や数字でしか表現されない。さすがに『激動の昭和史 沖縄決戦』やれとまでは言わんけど、これではあまりにも会議室映画、対策本部映画すぎないか。一例をあげるなら血液凝固剤の存在だ。たとえばゴジラの肉片、血液サンプルに対してそれが本当に有効であることを画で見せる場面がなく言葉の説明のみなので、我々は凝固剤の実在をまったく感じられないまま最後の決戦に突入してしまう。
確かに自衛隊の幕僚長が言う「礼は要らない、仕事ですから」は、日本人の精神性を象徴するいい台詞だと思う。粛々と黙って自分の仕事を行う名も無き人々の総体こそが美しいという美意識もよく判る。しかし、しかし実は日本人がいいかげんな仕事もかなりやってきたこと、営利目的でなされた仕事のすべてが世のため人のためとは言い難いこと、盲目的に進められた仕事が時にとりかえしのつかぬ悲劇を生むことがあること、そして、日本人が常に美しいとは限らないということを、我々は2011年、震災に伴う原発事故で散々に思い知らされたのではなかったか。
ここで頭をよぎるのが、劇中の「ゴジラを知らない日本人」に感じた違和感なのだ。漫画「ジョジョの奇妙な冒険」でサーフィスというスタンドが「…おまえ「パーマン」知らねーのか? グレート! 「パーマン」知らねーやつがよぉー この日本にいたのかよォー」と言う場面があったが、オレに言わせればゴジラ知らねー日本人がよぉー、この世にいるのかよぉー、となる。ゴジラは辞書にも載っているのだ。つまり極めてリアルにシミュレートされた「有事映画」シン・ゴジラに登場する「ゴジラを知らない日本人」は、純然たるフィクションなのである。そんなやつはどこにもいない。この映画の日本人像は庵野の斯く在ってほしい理想、いや未来の日本に託した庵野の祈りなのである。だから、生々しい死は描かれることがない。私小説のエヴァンゲリオンにおいては血みどろゴアゴア死体山盛り、巨大綾波の眉間に女性器パックリと破廉恥の限りを尽くした庵野が社会と向き合う「シン・ゴジラ」では急にいい人になって、いや、多分自分の中にあるいちばんマシな良心に誠実に映画を作ったのだと思う。だからこそ感動する、だからこそ素晴らしいという見方もあるだろう。そうも思うし、そんな見方の方が主流なのかもしれぬ。しかしオレ個人としては、それはちょっとヌルいのではないかと言いたいのである。烏合の衆が船頭で船が山に登り、西から昇ったお日様が東に沈む地獄の日本なら、いっそゴジラに蹂躙されて構わない。滅んじまっても仕方ない。それが時代の中のオレの気分だ。
それが、オレの正直な気分なのだ。
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