[コメント] シン・ゴジラ(2016/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ゴジラの映画は、本作品をふくめて31本製作されている。そのうち2本はアメリカ映画であり、ゴジラ以外の怪獣が登場しない作品は、初代『ゴジラ』、84年版『ゴジラ』、98年のトライスター版『GODZILLA』、そして、本『シン・ゴジラ』のみとなっているが、タイトルがゴジラ単体を謳っている作品は他に『ゴジラ・ミレニアム』とレジェンダリー版の『GODZILLA』がある。どちらもシリーズの復活を担った作品ではあるものの、ゴジラ単体の訴求力を追求しなかった(あきらめていた)という点では、他の4本とは性質が異なっている。昨今のアメリカ映画の円熟したVFXがその威を発揮するにあたってVS方式にたよらざるをえなかった皮肉には、アメリカ映画の限界を垣間見たものだが、日本映画ならびに『シン・ゴジラ』はこれを凌駕して、ゴジラ単体の映画をこの時代に結実させた。
その系譜をゴジラが単体で登場するこの4本のみにしぼって考えてみると、『シン・ゴジラ』という作品がより見えてくる。
まずは、98年のトライスター版『GODZILLA』におけるゴジラが生物のリアリティ=限界にとらわれたものであったのに対し、『シン・ゴジラ』はこれにとらわれないことを宣言して確信的にゴジラを神話的な存在として描き、精緻なポリティカル・フィクションと対峙させる。これを実現するにあたって、作家は同じく神話的であった初代『ゴジラ』の鋳型に、震災の記号をはめ込んだ。諸事情への自粛を考えないのであれば、もっともスマートな回答だった。こんなにもきれいに記号が現実とリンクして腑に落ちる映画というのを、自分はあまり知らない。
一方で、この映画が片足を置くところのポリティカル・フィクションが、84年版『ゴジラ』に原点を見いだすことができるのも非常に興味深い。そのあたりにも『シン・ゴジラ』は自覚的で、物語において「ゴジラとは何か」との問いを投げかける人物の名前を84年版『ゴジラ』の主人公から引いてきているのは象徴的だ。84年版における牧吾郎は、新聞記者だった。「ゴジラとは何か」を、戦争の記憶を失った現代において問い直す最初の人物だったと言える。映画としても、ゴジラの映画としても評価されない84年版ではあるが、ゴジラを問うにあたり政治を念頭に置かざるをえなかった姿勢には結実しなかった真摯を感じていて、あの映画はあの映画で時代の正直な吐露だったと思っている。あるいは、ゴジラ映画における神話の不在こそ、自分の世代の原点だとさえ思っていて、それは『シン・ゴジラ』を製作した作家たちのモチーフともそう遠くないものと勝手に感じている。
この『シン・ゴジラ』は、初代『ゴジラ』の不在と葛藤してきた東宝と我々ファンが、ひとつ、どうしてもここで必要とした模範回答だったのだ。
この映画の肝は、登場人物の背景を追求せず、個人のドラマを持ち込まないことによって逆説的に観客を巻き込んだ点にある。その徹底は明らかに勝っていて、美点とさえなっている。個々の背景を振り返らずにゴジラという事態の打開に打ち込む姿は、「ここらでひとつ、総理も好きにしみてはいかがでしょう」に収斂する台詞のひとつひとつまでが、誰もが腑に落ちる巧みな編み込まれ方を見せている。
一般的には予想できなかった庵野秀明の大きな仕事と思うが、これを引き入れて「好きにさせた」東宝のプロデューサーならびに日本映画の現状は、田中友幸と富山省吾の両名が時代と組み合いつつもときに逃げときに投げられてきた現実をずっと追ってきた自分からすると、相当な充実を感じさせる。個人的にそんなに映画を見られるような状況にない昨今にあって、たまたま鑑賞した『アイアムアヒーロー』や『ヒメアノ〜ル』に活力を感じていたので、余計にそう思った。
たとえば幼獣ゴジラが進化にもだえて団地を崩すシーンだ。そもそも怪獣映画では、人の死体をこれみよがしに描かない。死を想いたくない観客は想わなくていいし、死を想いたい観客は推して知るべしという文化だ。その「推して知るべし」の最も重要な例は、初代『ゴジラ』の合唱シーンだ。それを、『シン・ゴジラ』ではこの団地のシーンが担っている。あの中流未満のせまい部屋をベビー・チェアーが右往左往するくだり、家庭持ちにとっては静かに激痛だ。脚本もよく書いたなと思うが、現場によくゴーサインが出たなとも思う。あるいは成獣ゴジラがアパッチ・ロングボウから攻撃を受けるくだり、(着ぐるみを能にからめて語っていた中野昭慶の影響か)狂言師を連れてきたのは樋口真嗣だが、顔しか狙わず黒煙が覆い隠す趣向は庵野だろう。双方の演出が絶妙な相乗効果をあげる化学変化。そんなふうに誰かと誰かの歯車がかみ合う奇蹟が、この映画では役者の表情や間に至る細部にまで起きていて、思わず美化したくなる。庵野の存在ありきなのはまちがいがなく、作家作家で語ってももちろんいいのだけれど、現場ありきの映画というメディアだけができるカットの積み重ねが長谷川博己の演説に昇華されていることが何より重要で、アンノアンノヒグチヒグチ言ってばかりだと一番重要なものを見失う気がしてならないのだ。
実に大きな結実を見せてくれたこの映画に、でも、最後の最後で矛盾以外の何者でもないことを言うと、いよいよ初代『ゴジラ』とくらべて見たときに、ひとつ大きく欠けて見えるものがある。それは、芹沢邸の地下における密室のシーンだ。もちろん人間のドラマと言い換えてもいい。恵美子、尾形、そして芹沢大助。古典的作劇でありながら、ゴジラという存在だけが虚構も現実もはるかに越えて浮き彫りにした三者の相克が刻みつける感傷の不在は、『シン・ゴジラ』の美徳であると同時に、初代『ゴジラ』には決してかなわない不足であると、いずれ滅び行くゴジラファンのわたくしは思わずにいられないのです。
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