[コメント] シン・ゴジラ(2016/日)
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'84年の『ゴジラ』頃から、ゴジラ映画の政治・軍事面からの補強は意識して試みられるようになったし、ファンもそれを歓迎する土壌が作られるようになったように思う。確かに『ガメラ3部作』を頂点としたそれらは傑作の名をほしいままにしていた。だが、それはダラダラと語られるのではなく、活劇とのサンドウィッチにおける薬味として配置されたからこそ、現実とファンタジーの相克を和らげて評価されたのだ、ということをこの作品を観て痛烈に感じさせられた。この映画は政争を散りばめた怪獣映画ではなく、ゴジラにそっくりな新怪獣が山車に使われた政治映画だったからだ。
自分はギャレス・エドワーズの映画を「ゴジラ」とは呼びたくない。だが、あの能天気な怪獣映画も「娯楽映画」としては普通に演出された作品であることを認めるにはやぶさかではない。一番重要である、「ゴジラは核の暗黒面の申し子である」というポイントの欠如にさえ目をつぶれば評価できるものだ。だが、核や特殊兵器の危機には「さらりと」なら反応した本作は、そのかわりにヲタ方面以外の観客を心胆寒からしめる効果を見放してしまった。これはかなり重大な損失だろう。もっとも問題なのは、この作品世界には全く認識されていない特殊生物としてのゴジラをここまでつまらなく描き、そこではない政治話にストーリーの重きをおいたことだ。
次々に変態を繰り返し、無敵の特殊生物に成り代わってゆくゴジラのつまらなさは、ひとえに魅力のないその設定だ。放射能を吐く(このとき下アゴが割れてしまう異形感は、誰が考えたか判らないがあきらかな改悪だ)ほかに背びれや尻尾からも光線を乱射する離れ技を見せる。なんだ、あのゲーマルク。熱線を吐く動作なしにオールレンジ攻撃のできる生物兵器に、恐竜の形状をとる必要性など欠片もない。怪獣が熱線を「吐き出す」という必要性のあるハッタリを棄てることで、あのゴジラは「見せ場」を確実に放棄したのだ(言ってしまえばゴジラのエヴァ化だ)。
ゴジラ映画に大衆が求めるのは、新鮮な恐怖とお定まりの見せ場だ。同時期の『若大将シリーズ』にあったのはお定まりの見せ場だけだったから人気が時代を越えることにはならなかった。だが、恋人がいて青大将がいるからこその人気は得られたのだ。ひるがえって、『シン・ゴジラ』は人知を超越する生物という恐怖は生み出せた。だが、「特種生物」の恐怖を早く語り過ぎたことでその恐怖は凡庸になった。ただ歩くだけで見栄を切らない役者を前に観客は退屈を感じずにはいられないのだ。ビルを殴れ。列車を歯牙にかけろ。城を足蹴にしろ。それなしに最初から無人の野をゆくように傲然としている奴に、人間など意に介さない悪い意味での「神」になんの魅力があるというのだろう。野村萬斎のポーズを模したという「ゴジラ」は、そんな魅力に乏しい歩行者でしかなかった。
すっかり退屈した自分は、東京をゴジラとともに核爆弾で吹き飛ばすプランが米軍から出された頃には、ついつい「ああ、やってくれ」と吐き捨てる思いだった。このゴジラと、この我が国とになんの憎悪も、執着心をももたない冷静な人々の物語には、それだけうんざりしていた。怪獣映画って、もっとエモーショナルな物語でしょう。子供騙しだというなら言え。日本に、そしておのれの命に登場人物はもっと執着してくれ。代りのモノがあるなどとは思わず、驚き、怒り、動揺して対応しろ。
そんなことばが渦巻く頭で、自分は夢も希望もないこのフィルムから離れ、この思いをどう表現しようか、とばかり考え、もはや映画から関心をなくしていた。そうして、体をフリーズされて立ち尽くすゴジラを前に聞いたようなセリフをつぶやく主人公たちを前に、これって五輪フィルムに写される運動選手と同じ感慨を噛みしめているのだな、と思うのみだった。試合の余韻は今日は噛みしめるが、明日は今後身をおくべき職場を考えることになるのだろう、というような冷めた思い。彼らにはまぎれもない事実だろうが、およそこのシリーズでもっともヌルい感慨だ。
付記。途中で幾度かここちよい鳥肌が立った。なぜ気持ちが高ぶったかといえば、伊福部昭の曲が流用された場面だったからだ。決して鷺巣詩郎を軽んじているわけではないが、時代を越えた感動を呼び起こすファクトには、初代ゴジラは事欠かない実績を備えていることを思い知らされた出来事だった。
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