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[コメント] この世界の片隅に(2016/日)

当たり前の毎日が、どれほど幸せで素晴らしくかけがえのないものなのか、これほど強く伝わってくる作品ってないと思う。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







すずが雁木と呼ばれる階段をあがって船から広島の町におりたつ。彼女がおっとりと賑やかな町を歩いていく冒頭からもうすでに涙腺がわやになってしまった。この映画のすずさんというキャラが、たぶん子供のように無垢な存在だからなのだろうが、彼女を見ているだけで幸せな気分になるのだ。そして、彼女をとりまく人々と、その人たちとの生活が、ほんとうに愛おしく描かれるだろうことを確信する。そしてそれが無残にも奪われていくことを知っているからだ。

すずさんは本当に愛おしい。可愛いし、人のことを悪く思ったりしない、ユーモアもある。そして絵を描くという行為を通じて、この世界にある生き物や風景やそういった片隅にあってふつうの人が意識もしないようなものの存在をきちんと知っていていつも見守っている、そういう人だ。この人の側にいたら、この人と暮らしたら、きっと幸せなんだろうな。そういうキャラだ。円形脱毛症を隠すためにつっけんどんでいたら、実はとっくに気づかれていて「バレておりましたか」とか言う人、ふだん誰にも口答えなどしないのに、夫が自分を訪ねてきた幼馴染と一晩過ごせるように配慮したことに「余計なことをするな」と怒る。そんな人を誰も嫌いになれない。(余談だけど、このヘナヘナっとする感じと、ふだんほのぼのしているのに毒も吐く感じって、のんの当たり役の「あまちゃん」のヒロインを彷彿とさせる)

いつまでもすずさんの幸せそうな姿を見ていたい。少なくとも自分はそう思っており、別に戦争の話なんかなくったっていいと思ってるわけだから、そこに戦争が割って入ってくることの残酷さはひとしおである。象徴的なのが、瀬戸内海をみおろす段々畑にひろがる青空に爆撃機が突然切り込んでくるシーン。迎撃する高射砲の色分けされた弾幕(命中率を計測するため砲座ごとに煙の色を変えていた)が、すずのところからは距離があるため、美しいパステル調のさまざまな色を青い色の中に着色していく。

本作の原作にはない素晴らしい点のひとつは、風景の描かれ方。すずの家の畑からの呉の港をみおろす景色は、原作でも描かれているけどスケール感は映画が上をいく。これが前述のような突然爆撃機が襲来するシーンなどに説得力を与えている。この段々畑を始め、呉や広島の街の様子、すずの家の様子、監督がものすごくこだわって描写したのがこれらの風景だったと聞く。でもむしろそこにこだわるのは当然だったのだろう。なぜならこの作品の本当の主人公は「当たり前の毎日」であるからだ。

こうの史代のマンガは、そのコマ間の時間処理に唯一無二のものがあって、そんなぎゅうぎゅうに押し込んだ感がないのにも関わらず、ページに対する物語の情報量がとてつもなく多い。『夕凪の街 桜の国』が100ページもない短編というのがとても信じられないといったような、そういう作風である。なので、原作で描かれる戦時下の生活の細かなエピソード、とりわけ娼婦のりんとの心の交流など、割愛された惜しいエピソードもたくさんある。うち2点について最後にちょっとだけ原作と映画の比較を。

ひとつは玉音放送のあと、焼け野原の呉の街並みに太極旗があがるシーン。ネットでどなたかが書いていたいたのだが、それを見たずずの台詞が、原作では「暴力で従えとったけぇ、暴力に屈するということかね」というような言い回しなのが、映画では食料不足に触れ「この体全部が外の国に頼ってできていたってことかね」という言い方にぼかしているという指摘。これってある方面に対して刺激しないように配慮されてのことなのだろうが、あとあと本作の批評でたまに目にした「加害者視点がなく被害者視点でしか描かれない甘い反戦映画」というのを見ると、原作どおりでも良かったのかな、とちょっと惜しまれる。(しかし、確かに加害者視点がないといえばないにしても、本作の被害者視点は日本人の生活というだけでなく、普遍的な人々の当たり前の日常の破壊として共感できると思うので、これはこれで充分反戦映画であると思うのだが)

もうひとつは、終戦後ほぼ1か月後に襲来した枕崎台風のエピソード。日本にはそのうち神風が吹いて敵国を追っ払ってくれるという「神国思想」。広島、呉に甚大な被害をもたらしたこの台風をずずたち一家は「もう1か月も前に終ったのにいまさら威張りくさってやってきた。ほんに迷惑な神風じゃ!」と笑い飛ばすシーンで描かれる。映画だとバランスが悪くなるから割愛なのだろう。原作では終戦の日のエピソードの次の章で、同じボリュームで描かれる。日常はずっと続いていたんだと気づかされる本作の真骨頂。自分は原作では一番印象深かったエピソードである。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (15 人)Orpheus 緑雨[*] ぽんた[*] ペンクロフ AgentF[*] プロキオン14[*] pinkmoon[*] ぽんしゅう[*] てれぐのしす[*] 寒山拾得[*] DSCH[*] ロープブレーク[*] ゑぎ[*] シーチキン[*] 水那岐[*]

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