[コメント] フェイシズ(1968/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
クローズアップでその存在ごと鷲掴みにされる役者たち。肩越しのショットなどで、後ろを向いた陰としてしか見えないときでも、その存在が迫って見えてくる。それ故、観客の視界を覆う人物も、その人物越しに見える人物も、被写体としての存在感に変わりはない。
とにかく、幾人かの人物たちが或る時間と空間を共有していることの臨場感が只事ではない。それは、彼らの言動の予測不能性や、その反面、奇妙な停滞感に足を取られているようなムード、踊りや歌、ジョークという、他者に見られ聞かれることに訴える行為の連発、笑いと、凍った空気とを交互に共有し合う関係性など、複合的な要素が絡み合うことによって醸し出される雰囲気なのだ。
感情移入を促すような劇伴を挿入したりせず、説明的なカメラワークも排し、出来合いの筋書きをなぞらせることもなく、人物の一挙手一投足だけで成立させる演出の徹底の勝利としての、この臨場的な雰囲気の獲得。
軽薄な明るさを振りまく青年・チェット(シーモア・カッセル)が、その軽薄さに対して年増女たちから二度も浴びせられた頬への平手打ちを、今度は彼の方で、睡眠薬を大量服用して倒れたマリア(リン・カーリン)に浴びせるシーン。恰も、彼女がチェットに浴びせた平手打ちが、彼女自身の軽薄な行為(=チェットと寝る)に対して返されたかのようだ。チェットの笑い声と明るい言葉を浴びながら息を吹き返して泣く彼女の涙の出処が、安堵の感なのか後悔なのか屈辱なのか、混沌としたまま感情の噴出だけが現前する。帰ってきた夫(ジョン・マーレイ)の前で、マスカラが残した涙の跡を晒しながら呆然としているマリアを捉えたショットには、思わず『裁かるゝジャンヌ』のマリア・ファルコネッティを連想させられた。日常卑近に肉薄しきった先の、崇高とも何とも表し難い何ものか。
ラスト、階段の上と下とに別れて距離を置きながらタバコとライターを共有し合う夫婦。行く手を遮るように伸ばして置かれた脚。全篇、役者たちの身体性を爆発させてきた末に、この構図と静止で締める、絶妙なセンス。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (3 人) | [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。