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[コメント] ハッピーアワー(2015/日)

ふたつのイベントの様子が、主人公たちが日常から少しだけ離脱する“儀式”として、たっぷりと時間をかけて描かれる。延々と続くその“儀式”は、いつの間にか観客のリアルな日常も浸食し始める。架空の日常と現実の日常がスクリーンを媒介にシンクロするスリル。
ぽんしゅう

この物語は、入口と出口に儀式が用意されている。

彼女(4人の主人公)たちにとての、入口の儀式は「重力と身体」に関しての体感ワークショップだ。いささか胡散臭い講師にうながされ、参加者たちが意味ありげでいて意味不明な身体ゲームを繰り広げるさまが延々と描写される。私たち観客も膨大な時間を費やして彼女たちといしょに、この発散型の儀式を体験することになる。そして、彼女たちの昂揚感がスクリーンから滲み出すように伝播し、私たちの感情もまた現実からいつしか離反し始める。

出口の儀式は「片思いの心情」を綴った短編小説の朗読会。若い女性作家によって、まるごと一篇が読み上げられるさまが、ほぼリアルタイムで淡々と描写される。その声音は単調なようでいて聴く者の意識をそらさない。入口の発散に対して、出口へ向かうための集中の儀式。この助走時間を経て、彼女たちと私たち観客は新たなステージの現実へと覚醒する。

観客もスクリーンのなかの人たちと一緒に、この入口と出口を潜り抜けることで、いつのまにか映画のなかの日常に無理なく溶け込んでいく仕掛けだ。暗示にかけられたように彼女たちの時間(日常)を共有し、5時間17分という壮大な会話劇に参加する(させられる)ことで、彼女たちの危うくスリリングな浮遊から目が離せなくなってしまうのだ。

映画では、わずか半年程度の間に起こる日常からの離反と、新たなステージへの着地の物語が描かれる。その心情の揺れをリアルに感じ取るために、彼女たちと同質の日常の時間を共有する5時間17分という時間が必要だったのだ。この映画の長尺に一切冗長さを感じないのは、私たちを映画内の人物たちと一緒にトランスポートさせることに成功しているからだと思う。

心情が塗り込められてしまったかのように表情が消滅した、登場人物たちの逆光のシルエット姿が印象に残る。

(評価:★5)

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