[コメント] リュミエール!(2016/仏)
今から120余年前の人々が、このシネマトグラフ(動きを書く)と名づけられた魔法を目にした驚きは想像に難くない。だが大衆はいつの時代も飽きっぽく貪欲だ。おそらく「写真」が動いたという単調な感動は、すぐに「何が(誰が)、どう動くのか」を観たいという我がままな欲望に変わっただろう。
リュミエール一族が、シネマトグラフというハードウェアの開発の次に取り組まなければならなっかったのは、大衆は何に魅了されるのかというソフトウェアの研究、すなわち興行(見世物)として演出術の開発だった。本作に収録された108本の短編には、すでに我々が現在目にするさまざまな演出術が駆使されていることに気づくだろう。
映像は見世物として上映された瞬間から、撮りたがる者(作家・技術者)と、観たがる者(大衆)と、儲けたい者(興行主)の欲望が生み出す共犯関係のうえに成り立っていたのだ。120余年前の「動く写真」が観たいという大衆の好奇心は、すぐに「出来事=事件」が観たいという欲望へと変わり、ときに幸福な、ときに過剰な三者の共犯関係を維持しながら現代へと至り、さらに未来へと向かう。
トーキー化、大画面化、カラー化、立体化、磁気記録化、高解像度化、デジタル化という技術を得て、映像の用途は、作劇映像、記録映像、報道映像、監視映像、プライベート映像、コマーシャル映像、プロパガンダ映像、ネット投稿映像、と用途を拡大し続ける。リュミエールの映画群には、これらの萌芽が映像をめぐる欲望としてすべて内包されていた。
我々の映像に対する欲望が尽きることはない。映像を消費することの功罪は・・・・、などと立ち止まって考えることすらままならず、映像に対する欲望は肥大化し続けている。・・・そんなことを考えた。
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