[コメント] 響-HIBIKI-(2018/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
まあ映画なんだから、そもそも原作もマンガという視覚表現なんだから、アクションで見せる方法論がイケナイわけではない。ただ小説にまるで興味がないからアクションに偏っているとしか思えないのがイケナイ。
直木賞は芥川と違って執筆歴も考慮される傾向があるようだが、新人がデビュー作で候補になった例もあり、いきなり両賞の候補となり受賞というのも全く非現実的とは言い切れない。ただ、授賞理由の説明が一切ない。文学にまるで興味ない人でも誰でもが知る賞のダブル受賞というインパクトで響の凄さをアピールしようという、小学生レベルの発想に見えてしまう。原作マンガがどうなのかは知らないが、小説になんら興味なさそうな雰囲気がビンビン伝わってくるのには困った。
小説大好きと言いながら具体的な作家名はほぼ出てこず、登場人物の書いた作品に対する批評も具体性に乏しい。響の天才性の表現が周りのリアクション頼みというのは原作マンガの時点でかなり言われているようだが、そのリアクションにしても、天才・響の「お伽の庭」について最も具体的に感想を言っていた北川景子の台詞からは、そんな驚くほど斬新な作品とは感じられず、既存の小説の延長線上で、物凄くよく出来ている、という秀才的な作品らしき気配がプンプンしてしまう。
アヤカ・ウィルソンの小説、父の名声と女子高生作家という話題性で売れはしている新作を響が批判するシーンでは、批評や反論の言葉もないままに「やられたらやり返す」の暴力が単調に続き、平手に平手打ちを反復させるギャグシーンと化すありさま。批判される側も出来に満足いっていない状況でのことなので、響という絶対的存在からそれを言われる苦痛から逃れるためのケンカではあるんだが。そのシーンで言いそびれた批判を、絶交期間終了後に響が口にするシーンでも、文学固有の問題を議論するわけでもなく、アヤカ・ウィルソン先生も、編集者からの口出しに従った結果なにが書きたいんだか分からなくなったという、マンガ家と編集者の間でもありそうな話をする。
編集者といえば、その口出しをした「ふみちゃん」(北川)と響が初めてじかに対面するシーンは、互いに相手が誰だか知らないままに、原稿を取りに来た編集者と、その担当する作家の書斎に居座っている謎の女子高生の攻防となる。ここで響が、あなたは作家の創作に関わっているのか、そうでないならあなたには関係ないと言い放った言葉が、ふみちゃんによるアヤカ先生への口出しを招いたのかとも推察させるシーンだが、この口論のあとの響とふみちゃんによる身体的攻防は幼稚園児のケンカのようなマヌケな光景。真面目なシーンなのかギャグなのかも判然としないくらいだが、そんな無様なケンカをするほどぶつかり合った二人だからこその絆、というつもりのシーンだったんだろうか。
書斎に文豪ヅラして居座る響の言葉は鋭いものがあるが、そもそも他人の書斎に勝手に居座っていいものなのか。たとえ娘であるアヤカ・ウィルソンが書斎の出入りを許されていたとしても、その友人にまで許されているとは言えないだろう。それなのに正論ぶって大きな顔している響。このように、筋が通っているんだかいないんだか微妙なところがある先生。口より先に手が出過ぎるのも、喋るだけでは絵的に地味になるという演出上の理屈しか感じられず、響という一人の少女の行動としては、物凄く幼稚で頭が悪そうに見える場面が多い。新人賞を同時受賞した男の、読みもしないで作品を否定してくる態度が気に食わず、受賞会場でパイプ椅子を振りかざして殴りかかり出血させるなど、小説よりプロレスの方がホントは好きなんじゃないかと疑いたくなる。
アクションの映画としては、響先生の行動は暴力メインだとはいえ、その反対に、好きな作家と対面した際の「握手」というアクションもある。先生の多彩なアクションの中では地味な、「握手して」と頼んで握手するという、アンドロイド的なまでにパターン化された行動の繰り返しは、先生の人間としてのぎこちなさを凝縮しているが、だからこそ心からの行為に見える。作家を呼び捨てにするのも、本や雑誌の活字で目に焼きついた名をそのまま口にしているように見え、失礼さを突き抜けたナイーブさ純粋さが感じられる。小説マシーン響の人間味。
仮に、その和らいだ表情が見えるのが作家との握手シーンだけだったなら、小説にのみ反応するマシーン感が拭えなかっただろう。動物園での楽しげな響も見られたからこそ、握手のシーンもより活きる。動物園のシーンは脚本から除かれていたらしいが、それを加えるよう求めた平手は正しい。
響は不愛想なので、台詞は一言二言発する程度のシーンも多く、無表情を決め込んでおけば周りがワアワア騒ぎアタフタと驚くのでなんとなく凄味が出る役柄、のようにも見えるのだが、かといって演じた平手が楽をしていた風にも見えない。演技らしい演技をしていたとも思えない彼女の役割は、映画の中心にただ存在するという一点に尽きていたかもしれないが、存在するという一点集中であの重みを醸し出していたのは見事と言うべき。
逆に北川は、演技らしい演技をし過ぎて、その落ち着きのない振る舞いが喜劇的になり、リアリティが空中分解しているシーンが目立つ。響のエキセントリックさに振り回されながらも、その才能を絶対に守る者として、時には響に拮抗するほどの重みが求められる役柄だったはずだが、二人の存在感の重みと重みがぶつかり合うシーンが見られなかったのが物足りない。終始、どこかすれ違ったままで、最後に響が向かい合うのも小栗旬。
ラスト、パトカー内でふみちゃんと電話した響が、「百万部の本を出したら印税は一億」というのを確認して、鉄道会社からの賠償請求に応えられそうだと安心するシーンは、ふみちゃんよりも自分の窮地、せいぜい両親への迷惑を慮っているのだろう。その両親なんてのは、小栗の本を読んでいる響に「ごはんよー」と母が呼びかけるシーンがあった程度の存在でしかない。いきなり百万部という数は、響が世に大々的に出て行く、作家としての始まりを予感させるが、全篇通して響は天才、凄い凄いの神扱いオンパレードだったので、百万という数を聞いても、今さら何も感じない。観終わっての物足りなさは、この辺に理由がある。
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