[コメント] 母のおもかげ(1959/日)
淡島版「母もの」として秀作である以上に、もうひとつの「鳩を売る少年」と云うべき歪な少年像の造形が凄い。清水の子役使いはこの遺作で深淵に踏み込んでいた。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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毛利充宏は母は二人いないという、何かパラドックスのような認識。これに誰も抗弁できない。無理矢理押し付けたら、彼は壊れてしまうだろう。周囲はこれだけは判っている。母の遺影への儀式のような挨拶。鳩喪失への怒り(この伝書鳩が帰ってこないのは、死んだ母の配慮に見える)。彼が神の如く荒ぶることを周囲は忍従する。まるでそれが罪滅ぼしのように。
『風の中の子供』のラストを想起させる、毛利が照れて障子越しにかくれんぼしながら淡島をお母さんと呼ぶ件、『風の中』と唯一違うのは相手が淡島本人ではなく彼女の服であることだ。照れる、とは単体では微笑ましい振る舞いだが、抑圧されたとき残酷な方に噴き出すものだ、と本作は囁いている。毛利が大人で権力者だったらどうだろう。
キャメラは二度、船上とラストの路上で旧来の清水らしい縦構図がみえるが、全般に『次郎物語』辺り以来の横移動が執拗に反復され、不思議なリズムを構築している。それは殆んどか建物と平行になされるのだが、淡島か毛利を屋外で追う件では、橋と駐車した車(この陰に毛利はまたもや隠れる)が斜めに捉えられ、眩暈を催すような効果をあげている。ここが私的ベストショット。
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