[コメント] サファリ(2016/オーストリア)
殺傷に浮かれ嬉々として饒舌な白人ハンターと、黙して加担するガイドや獲物をむさぼり喰う解体役の現地民。カメラは被写体と一定の距離を保ちながら、醒めた目で冷ややかに彼らを捉え続ける。その意地の悪い視線は、偏見ぎりぎりの確信犯として人間の矛盾を嘲笑う。
インタヴューに応える白人ハンターたちの“浮つき”具合が腹立たしくもあり、滑稽でもあり、悲しくもある。作中で質問事項は提示されないが、おそらくハンターたちの応えから察して問われたのは次の質問だろう。
問1:「殺すことの罪悪感について」(殺すのではなく“仕留める”と言い換えて免罪を求める)
問2:「どんな獲物を狙うのかについて」(動物の美しさを語るが、意識は生命ではなくフォルムにしか関心のないコレクターだ)。
問3:「武器について」(玩具に憧れる子供のよう殺傷能力のスペックの薀蓄を語る)
問4:「現地民への思い」(感謝を口にしながら黒人に対する意識せざる優越性がのぞく)
問5:最後は「死について」(彼らは動物の死について一切語らない。関心があるのは自分の死についてだけだ)
作者のウルリヒ・ザイドゥルは声高に動物愛護を叫んだりしない(あの凡作『ザ・コーヴ』との落差)。描かれるのは動物を殺戮することの善悪ではなく、自らの欲望に抗いきれず、あらゆるものを“消費し続ける生き物”である人間の業だ。
我々は生き物の命を“消費し続ける生き物”であるということ。牛や豚やイルカを喰うことと、野生動物の毛皮や頭部で部屋を飾り立てることに本質的な差異はない。あるのは人間が人間であることの「どうしようもない」哀しさだ。
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