[コメント] はかな(儚)き道(2016/独)
幼年時代・青春時代・中年の危機と、<女の一生>の三つの局面を巡る、シャーネレク流のオートポートレということでしょうか。 どうしてもこの手の作品は自伝的なものを見てしまう。 たとえ、それが事実とはあまり関係のない感情生活の抽出に過ぎないにしても。
言葉少なながら、記念碑的な三つの年代の断章が、さながら氷河期の最中にあるような深々とした感情の隠れ谷を中心にして、時空の峠を超えたところで交差していきます(****)。物心つく前から少女は母親のなかにすでに遠い日々の照り返しを見ているのであり、別居中の両親の間を行き来する道すがら(車とアパートの)窓に影を落とす未知のカップルの俤にそれとは知らずに来るべき青春の萌芽を感じているのである。一部と二部では、30年の時差があるにもかかわらず、二人の男女の容貌がほとんど変わっていないというのは、確信犯的な演出なのでしょうか。 あまり人間の表面的な変化に興味がないようにも感じます。
それとなく円環的な構造を含んでいるところからも、いかにも独逸人らしい、あの<運命>の影が落ちている点も見過ごせない。音楽家志望の青年とのエピソードの顛末は、私の好きなアンナ・カヴァンの「あざ」に近い後味を残す。破滅的なものへの病的な憧憬というのでしょうか。30年前にギリシアで別れたカップルの存在など知る由もないベルリンの少女が、学校のプールで怪我した車椅子の男の子の傷跡を愛おしげに舐める場面は(その傷跡は宿命の<あざ>のようにも見える)、萌生しつつある隠秘な欲望の行く末を暗示している。自我の形成に始まって、恋愛とキャリア、結婚と子育てと、どうしても諦念と紙一重の宿命的な人生観を仄めかしているような気がしてならない。ラストショットで、無二無三にサッカーのシュート練習に励む少女の姿に、前途洋々たるものが、あまり感じられなかったのです。
9/10
*)1 たとえば、本作のインスピレーションの一つにあげられているブレッソンの影響。それがあからさまに感じられる一連のショットの成否如何についてどのように考えたら良いのだろう・・・・路上演奏の舞台として選ばれる開巻の観光広場。ひと稼ぎして実家に電話を入れるイギリス人が、母の危篤を知らされるシーンがある。その瞬間に青年を襲った感情の波を表すのに、本人の顔を見せないで、周囲のリアクションを介してその強度を増幅させようとする。青年が失神すると同時に隣にいた男が背後から支える首下のカット、それに続いて、バンの荷台で休んでる若者たちがぼんやりと見返すカットを入れるのはその最たるものである。その間、遠巻きに見守るガールフレンドの様子が二度に渡って挿入される。さらに、そのあと、イギリス人を介抱した男に対して 売店のベンチで休んでいる売り子が、何が起きたのかとギリシア語で問いかける(ここで、初めて、視聴者は、イギリス人の母に何が起きたのか知ることになる)。これだけでも随分くどい感じがするのに、ダメ押しに、店先に佇む先の男の背後から迫って、カメラ目線で振り向かせるという何とも異物感の強いカットで末尾が締めくくられる。ここまで来ると、直接のリアクションを超えて、何か別の思惑が働いているのではと勘ぐりたくなるのも当然だろう。一面では、このシークエンスのために、ギリシアという迂遠な土地が選ばれたところもあるのだから、イギリス人を襲った不幸をつぶてとして、郷里から遠く離れた場所で、周囲に広がってゆく波紋の様子(**)に並々ならぬ関心が抱かれていることがわかる場面構成である・・・・他人の不幸におざなりに同情してみせる売り子、なすすべもなく見守るしかない女、消極的な傍観者に徹する若者たち・・・・しかし、あの最後の男の顔は、24時間ノンストップで戦闘に従事して極度のストレスを味わった兵士のそれを思わせるあの眼差しは、何なのだろう? まるで、イギリス人の運命を一閃のうちに見透かしたような凄味がある。ただ、ここでひっかかるのは、例えばガールフレンドの反応を示すのに二つのカットが必要だったのかという経済性の問題である(直前のを入れると三つ)。個人的な印象としては、上記のリアクションの畳みかけがあまり鮮やかに感じられなかった。言葉を介さずに胸に迫るような<音楽>を感じなかったと言ってもいい(あくまでもこの箇所に限定しての話です。この映画において、<音楽>を感じさせる場面は枚挙にいとまがない)
*)2 不満だけ述べてお茶を濁すのもフェアでない気がするので、カウンターとして、別の興味深い箇所にも触れておこう。それは離婚を承諾した人類学者の男が、不動産屋の女性に新居を案内される折のワンシーンである。寝室の戸口から顔を覗かせてブラインドの自動開閉スイッチを試す男。すでに薄暗がりにある室内が、その瞬間光源を絶たれて漸次的に闇に呑まれてゆく様子を、二人して、静かに見守る。ただ、それだけの場面である・・・・離婚の痛みが直接的に感じられる描写は敢えて省略して、悲劇の衝撃が生活の周縁に波及していく様子が、虫の目で見るように引き延ばされた時間に定着される。それは、ただでさえ空ろで薄ぼんやりとした居住空間から最後の光が失われていく、その経過の確認であると同時に、淡々と物件の設備を説明して回る不動産屋の機械的な所作を介して、時間の非可逆性を、その拍子抜けするような退屈を、しみじみと咀嚼する恰好の機会となる。スイッチ一つでひょっとして時間を逆行できるのではないかと、最後の希望のよすがにすがるように切実な眼差しを不動産屋の女性のほうへ向ける男の表情。その束の間胸にたぎる思いは、終盤近くで、30年のブランクを経て若き日の恋人と再会した女が、思い出のバックパック(***)を友人に譲り渡した直後に見せる悲しみの表情に引き継がれるだろう。ああ、あのとき、わたしたちは、あのひとの、何を見ようとしなかったのか、と。
** 換言すれば、他者との関係性の不確かさ、移ろい易さ、その印象の儚さ、不透明感。コメント欄でも触れた父の言葉を通して別の角度から掘り下げられる。
*** ちなみに、欧州の国立大学の円形講堂の最後列でよく見かける感じの、根無し草的な人文系モラトリアム学生のステレオタイプについては、いつかr/starterpacksに投稿してみたい気もする。ぼろ雑巾のように使い込んだブルーのサックなんか、よい出発点になりそう。この映画の前半部って、30年以上も昔の時代設定なのに、ほんと、ある種の習性って、世代を超えて引き継がれるのだなあと感心してしまった。
**** 例えば、一人の女性のなかで煮詰まってきた感情が、時と場所の懸隔を飛び越えて、別の女性の夢想のなかへ転移するというパターンが繰り返し見受けられた。あるいは、一つのシークエンスの半ばで、同じ運動の持続を装いながら、いつの間にか半日先とかへタイムスリップしてしまっているケース。この手の連動的・連想 的なトランジションのやり方は、私なんかは「夜の果ての旅」の有名な冒頭の出陣のシークエンスを思い起こしてしまう。
ちなみに、一見して互いに縁もゆかりもなさそうな本作の二組のカップル/親子の間にどんな説話的/精神的/テーマ的関係が想定されているかという問題については、私は、どうしても、ホン・サンスやデビッド・リンチの仕事を思い返してしまう。特に映画の終盤のひとつ手前で、おそらく監督の立場を代弁しているのであろうヒロインの女優が、フィクションとリアルの関係性についてインタビューに答えている場面を再見した後では、ひとしおその思いが強まる。つまり、この女優にとって、前半のカップルの話は、文字通り、長年抱懐してきたファンタズムの一部であった可能性もあるわけだ。そのように語るときの彼女のすぐ背後で、飼い主のいない大型犬の傍らに同じ白昼夢の痕跡がひっそりと留められているのを我々は追認するわけである。
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