[コメント] グリーンブック(2018/米)
ここ数年、「ヒトラー」という名前をタイトルに配したヨーロッパ映画が流行った。一部作品の原題には含まれないサムシングであることを無視して、日本の映画会社は性懲りもなくヒトラーをタイトルに躍らせた。これが日本人大衆の寝覚めをよくしたことはたぶん確実だ。普通の日本人にとって、これほど世界平和の敵としてやり玉にあげても罪悪感を感じずにすむ人物はいないからだろう。昭和天皇やら東条英機やらを尊敬していない人でも、彼らを外国人が「戦争犯罪人」と断じたとすれば、決していい気分はしないだろうからだ。その点ヒトラーは罵っても誰も怒らない(ドクター高須は例外か)。第二次大戦を彼が引き起こしたかどうかは別として、そういう男だとして彼をdisっておけば、とりあえずカッコはつく便利な人名ではあるだろう。
それと較べるのはあるいは強引かもしれないが、最近の映画において「黒人差別」についての映画が安易に乱発されていることは否めない。そして「人種差別なんか友情の妨害にはならない。みんな一緒の人間だ」という考え方をする人はけっこういるようだ。もちろん追い詰められたネトウヨの戯言ではなく、市井の善意の人々からそういう言葉は多く聞かれる。それは巨視的に歴史を見れば正しいのかもしれない。数十年後の子供たちは巧まずに隣国の子らを受け入れるのかもしれない。だが、そうであっても今はまだそれはファンタジーでしかない。それは日本人には「在日高麗人」や「部落民」を黒人の代わりに据えてみれば容易にわかることだ。かれらを友情をもって迎える人は多いが、依然としてヘイト発言はネットにはびこり、韓流スターやキムチまでもが悪の一部であるかのように攻撃されている。
それを思うとき、この作品に描かれる「いつかは差別の壁を崩すちっぽけな友情」は信じられないものとなる。いつかとはいつなのだろう。今であれば友情は、現実の目を通して見つめれば間違いなく無力だ。恥ずかしいことだが、『ビール・ストリートの恋人たち』を見た自分は友情や愛が差別を打ち壊す未来を確信し、それを信じずに諦めを見せる主人公たちを軽蔑した。そして何かが異物として残るのを敢えて無視し、黒人たちの美しさと存在感を含めた映画の清冽のみを絶賛した。この恥は消去しないこととしたい。自分もまた極楽トンボだった。
極楽トンボな主人公たちのあいだには、実に美しい友情が立ち現れる。だが、それが皆の意識を変えてなどはいない。そんなことは先刻承知とでも言いたげに、イタリア男は「グリーンブック」に反しない程度にピアニストをサポートし、アウトローに堕ちることもなく(冷遇されたピアニストが演奏会ライヴを蹴るくらいしか例外はない)、差別の花咲く南部を泳ぎ切る。これに何の賞讃を贈ろうというのか。ただ、お互い世渡り上手になっただけではないか。スパイク・リーが激怒したのは、この胡散臭い友情が黒人に聴くべきなんの提言も与えてはいないからだろう。差別に実生活で危機を加えられた彼らは、それについてよく判っているから、日本人よりは差別を商売で扱っているのか、否かはよく理解している。この玉石混交は今だから放置されているが、他ならぬ被差別者の手によってブームは終止符を打たれるだろう。「ヒトラー」はもうお伽話の住人になろうとしているが、差別は今もなお影響力を横溢させている現代の重要問題なのだから。
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