[コメント] ジョーカー(2019/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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虚実の区別ができない、妄想型の人間が主人公である作品は割と多いと思う。 私が最近観た映画だと、『勝手にふるえてろ』は「今までのあの描写は主人公の妄想でした」のどんでん返しを非常にたくみに展開していた。 (勘の良い人ならあれでも気づくのかもしれません。 って軽く『勝手にふるえてろ』のネタバレになってますが、松岡茉優の魅力を楽しむ映画なので、そこを知っていても面白さは損なわれないでしょう。あの松岡茉優めちゃくちゃ良いですよね!)
で、この『ジョーカー』では、主人公アーサーが妄想型の人間である事が序盤で提示されてしまっている。 このため、勘が悪い人でも、特にアパートの同じ階に住む黒人女性とのくだりは違和感を感じるだろうし、このシーンって主人公の妄想じゃない?と疑って観たのではないだろうか。 正直いって、ノーラン版バットマンのような展開の読めないスリリングさ、というのはこの映画にはあまりないのである(主人公がお母さんを殺すのも、お母さんがでてきた時点で読めますよね。デ・ニーロもしかり)。
と考えたところで、これは私が望むものと違っていただけなのかもしれない。
この映画を通して最も強く感じるのは、精神的な病気である母親から生まれた主人公の境遇とダークサイドに堕ちる「やりきれなさ」、だった。 それを描き切るには、「途中までリアルとみせかけて実は妄想でした」の露骨なトリックは明らかに余計である。アーサーが最初はまともな人間に見えて、途中で妄想型の人間であることがわかるような展開になれば、それはそれで全く別の映画になってしまう。
この映画では、物語の最初から観客が主人公の妄想に付き合わされるのだ。さらにいえば主人公は母親の妄想に付き合わされており、観客は二重に妄想に付き合わされている。それによって観ているものをうんざりさせることが監督の狙いのように感じるので、その上ではこの描き方は正しい。
しかし、そのように考えたうえで問題になるのはラストである。あの病棟のシーンでは、「今までの話しは実はjokerによるjoke(妄想)である」というような解釈も可能なように描かれているように私は感じた。 (留保してラストをそう解釈しなくとも、この映画の物語自体がアーサーの妄想である、という解釈はやはり主人公の設定上ぬぐいきれない。薬が不要になったと自称するアーサーは妄想しなくなったのか、やはりするのか、というのは病理に詳しくない私には分からないが。)
メタ的に言えば、この作品は、いや、全ての映画は、基本的に監督と脚本家によって作られた(妄想の)作り話にすぎない。それでも私たちはフィクションにリアルを求めているのだ。 特にこの作品は明らかに現在の現実の世界の腐敗を反映させた物語に違いない。だからこそ、リアルの強度が強くあってほしいと私は思う。 だから作品内で自己言及的に「今までの話は妄想(かも)」、と解釈可能にさせるとリアルの強度が一気に低くなってしまい非常に残念に感じた。
しかも、せっかく『ダークナイト』ビギニングであるかのような描写もしつつあるのに、そうしてしまうことは『ダークナイト』自体を妄想化してしまうことにならないか(もっとも、ダークナイトとの関連性を描いているがために、矛盾が気になるところもあるのだがそこについては他の方にゆだねる)
この不要に見えるラストの意図を少し考えつつ検索すると、アメリカではこの映画が、犯罪の引き金になるのではという懸念があると知った。 そうか、確かに、ジョーカーが祭り上げられるシーンで終わるとしたら、観客にあたえるショックは大きく、この映画の中の出来事が現実化(リアル化)する、というリスクも拭いきれないかもしれない。日本だったら問題ないだろうが(とはいえ日本からこんな重厚な作品は生まれないだろうが)、アメリカの銃社会の危険性を考慮とすると、ラストのシーンもリスク回避的に敢えて追加したのかもしれない。
(と色々(私も妄想的に)考えましたが、役者(ホアキンやデ・ニーロはいうまでもないでしょう)や演出に比べると、脚本が弱くてもったいない気がするんですよね。)
19/10/04
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