[コメント] スパイの妻(2020/日)
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高橋は訴える。満州では人為的散布のペストの死体の山がある。実験ノートが知られればアメリカは消極的な対日参戦に積極的になるだろう。蒼井優は反対する。そんなことをしたら日本はアメリカに攻撃される、「貴方は売国奴ではありませんか」。究極のジレンマに見えるが高橋は簡単に蒼井を退ける。
ぼくはコスモポリタン(世界市民)だ、と高橋は語る。自然の狡知を語るカントは残酷である。「私は正義より幸福を取ります」と語る蒼井に高橋=カントは全く怯まない。カント倫理学は正義のためのもので、幸福のためのものではない。幸福は積極的に捨て去られるべきものだ(この少し前のシーンで高橋が蒼井に語る「僕は嘘をつくようにできていない。だから黙るしかない。君は僕を信じるか信じないかだ」も同様で、カント倫理学で嘘は許されていない)。
だから高橋は残酷に大日本帝国の消滅を企画する。この大胆さは「人間の條件」の梶や「神聖喜劇」の東堂、岡本喜八の北支ものを想起させてくれる(規模において凌駕するだろう)。重要なのは高橋がアメリカに味方している訳ではないことで、カントの世界市民として国境のうえで事をなし、最後はボンベイにいるらしい。
この作戦は、リアルタイムで先細って行く本邦のリベラルたちに対して叱咤を込めて提起されているように見える。お前ら攻められ放しではないか、逆襲しろと。
カントの自然の狡知は偶然を超えて正義を必ず達成する。自主制作の9.5ミリフィルムの小物使いは、この偶然を見事に具体化している。金庫からノート盗むショットから、現実がフイルムを模倣し始め、映画は俄然面白くなる。中盤、蒼井が高橋を憲兵から救出したのは「賭け」だった。終盤は逆に高橋が蒼井をフィルム差し替えの賭けによって救う(このスパイネタは何なのかは私には判らなかった。FINで終わるのだからフランス映画の引用なんだろうか)。そしてこのフィルムに含まれていた中国人を実験台にする映像は、物語の脈絡など霧消させる神の鉄槌の如き破壊力で、一瞬にして蒼井の幸福を断念させ正義を目覚めさせたのだった。
蒼井は密行時にシックな装いをしているが、憲兵分隊に引き立てられたときには派手な赤い洋服を着ている。まさか間違いではなく演出なのだろう。連想させられたのは水死した玄理の外套の赤で、蒼井が社会的にあの密告者と同化したと示すのだろう。続くスクリーンの前での「お見事」の絶叫は本作の私的ベストショットで、カットバックされる船の最後尾から帽子ふる高橋は超人的な人物に思われてくる。
蒼井が収監される精神病院の部屋は「六號室」と札が掲げられている。これは判りやすくチェーホフ「六号病棟」の引用であるが、小説とは視点が逆転しているだろう。「私は妙に納得しているのです」「私は狂ってはおりません。それがつまり、私が狂っているということなのです、この国では」。精神病院は狂った社会のアジールだと云っている。精神病院は売国奴となった彼女を戦争中に匿うにあたっての最良の潜伏場所だっただろう。
そしてここへも空襲(『火垂るの墓』の神戸大空襲)という幸福なき正義。これで日本は負ける、「お見事です」が繰り返される。ここに含まれる、まさかそこまで、呆れた、よくやるよ、というニュアンスは、コスモポリタンの超人に向けられるのに相応しかった。大日本帝国絶滅という高橋の書いたシナリオは出鱈目にも実現された。この夫婦はアメリカで再会するだろう。
山中貞雄の引用については、まずは彼の追悼による戦争反対の基調を求めたということがひとつあるのだろう。山中の逝去は1938年(本作の設定は1940年)で場所は北支だが、神戸港から死地へ向けて出征している(!)。しかしそれ以上に、上映される『河内山宗俊』は本作と密着している。蒼井の玄理への嫉妬は山岸しづ枝の原節子への嫉妬にWるし、坂東龍汰が有馬温泉の隠れ家で、忍び込んだ蒼井に羽毛をばら撒く意味不明のショットは、原の借家の裏庭に降ったあの羽毛のような雪の引用と思えばよく判る。その直前の、心中したと思われた原の弟の市川扇升が縁側にひょっこり座っている驚愕のショットは、終盤に音信不通だが生きているかも知れない高橋を想起させる。
しかし、原を助けるために茶坊主と用心棒が犠牲になる本筋は、本作と正反対だ。こんな古典的な物語を繰り返していたら全滅だよ、と映画は指摘しているかのようだ。曳かれものの小唄など唄っていたら山中の時代の繰返しだよ、なんとか逆襲しようぜ。蒼井が憲兵分隊へ行って観損ねるミゾグチ映画は、失われた『浪花女』。
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