[コメント] マグダラのマリア(2018/英=米)
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現代的な解釈からすれば、マグダラのマリアは「イエスに救われた娼婦」だとの知られている認識は根も葉もない誤解であって、むしろ弟子と同等の存在であったというのが定説になりつつあるのだという。そう言われてしまうと「そうだったんですか」と二の句も継げないのだが、史劇としてみると男性的かつ迷い続けるイエス、頑迷な弟子ペトロ、無邪気にイエスの王国を夢見るユダらに対し、あくまで「女性意識」を武器に自分をぶつけてゆくマリアという図式には面白いものがあった。フェミニズム史劇という切り口だ。
ただ、それを完全に徹底するには説明不足とは感じられた。ホアキン・フェニックス演じるイエスという聖性の感じられないおっさんが、その弱さにもかかわらず最終的には「神の子」として復活してしまう従来の「キリスト」である点だ。この物語は聖書が常識である国むけのモノであるためか、イエスの説教の内容は端折っているし、途中からの行動が聖書をなぞり始めてからはマリアは黙ってそれを追い続ける存在になってしまう。だから最終的に絶望し解散寸前の教団を鼓舞する彼女のコトバには唐突の感が否めない。こういったところは、聖書に幼時から馴染んでいるヒトたちのほうがよく判るのだろうな。そのへんは自分も痛感したポイントだ。
ただ、ルーニー・マーラの雄弁な瞳を活かす映画としてはこれは充分に成功している。やっぱり巧い。理屈で判らずとも射すくめられている自分としては、尻切れトンボの悪評は与えられない。それを言えば、「聖母」マリアのイリト・シェレグもいい演出がされていた。「聖母」じゃなく愚直な母として強い女だった。こういう点が、新しいキリスト物語たる所以なのだろう。これは、まぎれもない「女」の物語だったのだ。
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