[コメント] シン・エヴァンゲリオン劇場版(2021/日)
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この映画はとても「浅い」映画です。たとえばマリとシンジがなぜカップルになったのか説明していません。それどころか各キャラクターに用意された救済はまるで答えになっていません。問題は「そんなことは些細なことだ」と庵野が考えていることです。そして「そんなことは些細なことだ」と観客に思わせることにほとんど成功したということです。生きることはとても「深い」ことでありながら「浅い」「薄っぺらい」「しょうもない」ことです。生きることの「薄っぺらさ」を肯定すること。答えを出すことを放棄することが最も適切な瞬間が毎日存在するということ。それこそが「答え」で「正解」だと説得力を持つ映画を作ること。つまりこれからも薄っぺらく生きていくことを庵野は決めたのです。この映画の信じがたい破綻と有無を言わせぬポジティブさの共存はそれなのです。そして私にはそれが爽快でした。オタクでもオタクじゃなくてもどっちでもいいだろう大事なのは生きていくことなのだという開き直り。庵野はそうするしかないしそうすべきだった。私にはそれに対して「良かったね」という感想しか思いつきません。
少しばかり面倒な話をしましょう。父殺しの話です。ミもフタも無い言い方をすると本当の父殺しを行うと父は死にません。ゲンドウと対決することとは「ゲンドウと対決してもしょうがねえな」と思うことです。旧劇ではゲンドウは死にましたが父殺しには明確に失敗していました。別にわれわれは古代の王じゃないんです。父を現実的に殴ったり殺したりしても何にもなりません。むしろ「めんどくさいけどゲンドウと話し合うしかないな」という断念にも似た対話によって父は死ぬのです。そしてたぶんそのうち父は自然死します。別の面から見ると父殺しとは父から継承したものを取捨選択することです。例えばあのウォークマンはもうシンジには必要ありません。エヴァも必要ありません。もちろんいらなくても背負わなくてはならないものもあります。だからシンジは世界をもう一度構成し直したのです。ゲンドウのしたことに対してシンジが責任を取った。ゲンドウは勝手にシンジの中にユイを見出したし、もう父のことは一旦は終わりでしょう。これがこの映画の庵野流の父殺しだと私は思います。
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