[コメント] 夏時間(2019/韓国)
この映画の語り口は「物語」を語らないという点で多弁ではない。かといって決して寡黙ではない。もっぱら私たちに語りかけてくるのは「お祖父ちゃんの家」だ。その家は、地方の自然に囲まれた農家や、血統を誇示するような屋敷ではない。かつて仕事を求めこの地(都会)へ出向き、小さな成功を納めた若い夫婦たちが憧れ、こぞって入居したであろう都市近郊の住宅街にあり、今は子育てを終えた老人たちがひっそりと暮らす古い一軒屋だ。
広大ではないが、狭くはない庭。経年を感じるが、みすぼらしくはない木造の二階建て。今も堂々と、かつ、ひっそりと掲げられた、若き日のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのウエディング写真。核家族で暮らすには程よい広さの台所のある団らんの場(キッチンダイニング)。ささやかな成功の証しなのだろう大きなステレオセットが置かれた居間。そして十分すぎるくらい広い階段と踊り場。風が通り抜ける二階の窓辺に置かれた今は使い手のいないミシン。
そんな「お祖父ちゃんの家」が醸す“空気”が静かに、しかし饒舌に「何ごとか」を語りかけてくるのだ。空気とは かつてこの家に流れたていた生活の痕跡としての“時間”の蓄積のことでもある。映画を動かしているのは、そんな「空気と時間」なのだと感じた。
ある夜、二階から降りてきた少女が、ステレオの前で古い歌謡曲に聴き入るお祖父ちゃんを見て動けなくなるシーンがある。曲調は切なくも甘ったるく、歌詞は俗っぽい恋愛を語る。お祖父ちゃんはソファーで微動だにしない。少女は、その姿を見て驚くでもなく、微笑むでもなく、ただ表情を失い、どんな行動をとれば良いのか分からぬまま、もじもじと階段の踊り場に留まり続ける。
私は感動した。この静かな意図せぬ交流が、少女(チェ・ジョンウン)の停滞していた時間と、家に流れる空気(すなわち溜め込まれた時間)が呼応し合った瞬間に見えたからだ。
動的であれ、静的であれ、ある種の感情の昂ぶりで、物事を語るのが韓国映画の常套だと思っていた。なんとも“つつましい”語り口の、らしくない韓国映画だ。
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