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[コメント] 人生のお荷物(1935/日)

斎藤・吉川・突貫小僧のトリオによる五所平版『生まれてはみたけれど
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







亭主のヌードモデルしている田中絹江、寒いと云われて亭主で画家の小林十九二はストーブに石炭くべて、義兄の大山健二が訪ねてきて知らずに覗かれ、肩剥き出した絹代は悲鳴を上げる。当時としたらすごいサービスショットだろう。大山は妻で絹代の姉の坪内美子と喧嘩。似た者夫婦で同じこと云っていると絹代は双方を批評し、男には逆手を使うのよと語る絹代を坪内はひねくれ者だと呆れている。

ふたりの母の吉岡満子は、長女の坪内はお父さんと喧嘩していたときに出来た子だからと諦めているのが面白い。親とはこんなこと考えるものだ。母に長女はクラブ乳液を教えている。これはオヅの映画でよく広告が出てくるクラブ歯磨と同じ会社なのだろう。私値切るの得意とか云いながら絹代はクルマを拾う。タクシーに違いないが艤装は何もない黒塗りのクルマだ。

この序盤で印象に残るのは絹代のサバケた都会婦人ぶりなのだが、物語は以降、彼女から離れて。息子との親子三人の話になる。そして「逆手」ではなく正面から相対する大切さを説くのだから、絹代の生き様はやんわり相対化されたのだろう。

薄の繁る空き地で子供が遊んでいて、女たちが迎えに来る。帰途、突貫小僧はお手伝いの六郷清子(笑顔が可愛い)に向かって父の斎藤達雄をバカと云う。父(50歳)は父で、恥かきっこの息子をつくったのは失敗だった余計だったと吉川に語る。親子はお互い煙たがっている。

三女水島光代は岡田茉莉子みたいな美人。彼女の結婚式。斉藤・吉川は家に戻ってほっとして、家作も手放したが娘三人片付けて喜び合い、しかし突貫小僧が残っていたことにはたと気づいて父子双方にズームが入る。斉藤は「あの顔じゃあ嫁を貰うんだって大変だあ」と立膝を抱えてしまう。

あと二十年。学校になどやらずに小僧に出そう。吉川は当然不満がる。「女はもともと売り物だ。相当な支度をしていい処に縁づければ、それでまあ資本を卸せばようなものだ。男の子はそうはいかんぞ」「親として云うべき言葉じゃないわ」と喧嘩。「無責任ですわ」「夫に向かって何てことを云う」複雑な沈黙があり柱時計が鳴り、斉藤は布団に入ってしまう。「貴様のような奴にもう用はない。出て行け」「出て行きます」。こういう展開は家制度という気がする。吉川が突貫小僧を連れて絹代の家に泊まる。

斉藤は夜の街、クラブで三宅邦子にフルーツ頼まれている。高価なのだろう、こういうのは今も変わらないが、ジョッキに瓶ビール注ぐのは違っている。会社の部下が来て呑んでいると、少年(少女ではない)が花を売りに入って来て、ボーイに摘み出されている。一瞬斎藤は息子を思い出しただろう。課長と部下は芸者遊び。十九と云う酌婦にお父さんお父さんと云われて娘を思い出しただろう、斉藤は帰ってしまう。

突貫小僧はウッカリ帰る家間違えて実家へ、という展開が面白い。事態の好転はこういう間抜けさが条件になるものだというリアリズムがあった。斎藤は二日酔いで在宅。間が悪い。お互い愛想笑いして、斎藤は六郷清子にどら焼き買いに行かせる。今晩泊まるから心配しないでくれと吉川の処に電話がある。「坊やは家のほうがいいかい」「そりゃあそうさ」一番可哀想なのはお父さんかも知れないと斎藤は自嘲する。吉川は斎藤の処へ戻る。ちょっといい話。

ただ、吉川の母が終盤、「可愛いと可哀想を取り違えている」とか批評されるのはよく判らず、これだけは窮屈に思われる。今と違って女はよく説教された時代の産物だろう。斎藤にしても、親子のわだかまりが解けただけで、将来不安の条件はいささかも変わっていないが、気分が肯定的になったからOK、という簡単さは志賀直哉みたいである。突貫小僧が成人する頃は斎藤が老人でお荷物になっている、という気もした。

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