[コメント] マイスモールランド(2022/日=仏)
主人公演じる少女は頑張っていたと思う。ふと、こんな子がこんな顔でこんな状況を実際に生きているのかも知れない、などと感じさせられる瞬間はある。
しかしその主人公が、その生活が、社会的にどんな苦境に見舞われるのか、それを周囲の(同胞人や日本人ともに含めた)大人達はどう思い、考え、支えようとするのか、そこが映画を見ているだけではよく判らず、したがって主人公のこれから歩む道程もまたよく判らず、それを少女の実存的な覚悟に全託するかに見えるのは、有りがちと言えば有りがちな締め方で、敢えて言えば、有りがちなだけとも思えた。
父親不在の少女、という点で、ふと『さがす』という映画も、あとから思い出す。その映画の中で少女の担任の女教師は取り敢えず少女を助ける”ふり”だけはするが、少女にそれが”ふり”でしかないことを看破され難詰される。しかしその教師にもその人なりのなけなしの生活があるということがそのあとさらりと描かれて、少女も、そしてそれを見ている私達観客も、それ以上の判ったようなことは何も言えなくなってしまう。 そんな描写が、あって然るべきだったのではないか、とも思える。
それと、とても細かいことだが、主人公をパパ活だかなんだかに誘う男が、カラオケで尾崎豊の歌を歌っていた。フィクションである以上、そこには意図とまでは言わずとも何らかの意識くらいはある筈で、それ故、なんでここで敢えて尾崎豊なのか、とは思った。個人的には尾崎豊のファンでもなんでもないが、もし尾崎豊本人が存命だったら、あるいは尾崎豊を真摯に支えたファンの人達だったら、その歌のそんな扱われ方はどう思うんだろう、とは思えた。
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