[コメント] マイ・ブロークン・マリコ(2022/日)
一方、マリコによる手紙の映画でもある。手紙は独白で内容が示されるもの、そうでないものがあるが、それは、かなり戦略的な選択に基づいているだろう。つまり、手紙は多用される回想・フラッシュバックの一要素でもあるが、その存在自体がプロットをドライブするという役割を担っている。あともう一つ、靴の映画という側面がある。永野がパンプスで煙草を揉み消すショットがカッコいい。
また、この映画には、とてもインパクトのある跳躍(ジャンプ)の場面が2回ある。そのいずれも、状況以上に演出とカッティングの違和感が印象に残るのだ。一つ目は、マリコの実家(吉田羊と尾見としのりの家)のベランダからのジャンプで、こゝからの繋ぎは、ちょっとガッカリさせられる。いきなり川べり。川を渡る際も、渡り終わった際にも、家と川の空間を見せない。もう一つは、「まりがおか岬」の断崖からのジャンプというか落下で、骨箱が吹っ飛び、中の骨壺も開いて遺骨が飛散するというスローを盛り込みながら、こゝも気が付けば崖下の海辺に倒れている、という詐欺まがいのカッティングじゃないか。
ただし、上にあげた例だけでなく、本作は、空間の説明的描写にかなり無頓着というか、多分それよりも人物(永野)の表情や運動に関心があるのだろうと思われる画面作りが多々ある。例えば、「まりがおか岬」の風景をほとんど見せない。バスを降りて、あ、海の音!と思わせるのに、海を見せないというイケズな展開。あるいは、窪田正孝が歯磨きセットを渡す、港の風景だって、全景が全然分からない(その代わり、窪田の釣りの動作の反復は気持ちいい)。ロケ地の観光映画的な使い方をワザと拒否しているのだろうか。しかし、ある種の潔さを感じるし、よくあるドローン俯瞰の絵画的な夕陽や朝日の海の画を取り入れたりしない、というのも作家的な姿勢に感じられるのだ。
さて、最後に記すことになってしまったが、永野芽郁の熱演もさることながら、やはり、マリコ−奈緒も、タイトルロールだけのことはある存在感だと云えるだろう。もう冒頭アバンタイトル内のフラッシュバック(永野と2人で不動産屋の店頭チラシを見ながら会話するシーン)における、奈緒の顔演技を見た時点で、凄まじい破壊力だと感じた。結局、奈緒に魂を奪われ、夢中になってしまった永野の映画なのだ。だから、窪田とのロマンスなどには発展しようはずがないのだ。それは、彼から渡された駅弁の食べ方で端的に表現されているだろう。
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