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[コメント] 君たちはどう生きるか(2023/日)

羊水、波打ち際、はしゃぐ僕がいる
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 映画内でマヒトがナツコと初めて出会う(幼いころに会っているので、再会)シーン。ナツコがマヒトにいきなり腹を触らせる。死んだ姉の夫といつのまにか懇ろになって仕込んでいたその腹を、母が死んだ傷心冷めやらない甥におさわりさせる感覚の飛び方に、気持ち悪いとか飛び越して、唖然とした。妹であることが後妻であることの引け目を麻痺させるのだろうか……いいや、そんな解釈はもはや無駄なのだ。出兵に鉢合わせるや人力車を降りて礼を尽くす別の繊細さとの落差に鑑みても、感覚が根本的に異なっている。『崖の上のポニョ』でおかんが息子をのせた車で大嵐に特攻決め込んだ辺りに顕著だったこの問題は、依然として顕在らしい。

 では、なぜこうなるのかというと、作家のなかの正解があまりにも強すぎるからなのだと思う。実母も清ければ、その叔母も当然のように清く、正しい。圧倒的に正しい存在である叔母を、やがて少年が受け入れる結末はこれ、絶対なのだ。継母として彼女よりふさわしい者などいるはずがないという強すぎる確信があるために、後妻の引け目などおくびにも出さない。あるいはエロスの発露が極めて奇異に映るのは、一般的なエロスが背徳といった陰部から生まれるのに対し、ここでは光度の強い積極的なモチーフを苗床としている特殊さに拠る。それが生命の謳歌ということであればなるほど「大正解」なのだろうが、問題文を読み終える前に回答を言われてしまうようなところがあって、盆百の感覚を持つ私なんぞからすると、ついていけない。思えば、クシャナがナウシカにデれるのは最後の最後だった。だからこそ物語を追えたのだが、この作家がそれをやる気はもう微塵もないようだ。結末に至る感情の段取りや感傷を描く余地が薄くなったのは、『もののけ姫』からだと思うのだが、『ハウル』以降は顕著で、一般的な観客にとって把握し得る感情曲線も筋も時間経過も無視して突き進んでいるように見える。

 この正解が強すぎるという問題が、テーマの部分でも致命的な問題を引き起こしているように思えるのが、積み木(材料は石)のくだりだ。戦時という世界が壊れそうなさなかにあり、深淵に佇むじいさんが思わせぶりに語るこの話も、作家にとっては強い確信があるところなのだろう。ひとつひとつ積み上げるしかないのに、ぐらぐらで、壊れるときは一瞬――とでも綴ってみれば、なるほど解釈は成り立つ。そうして厭世と紙一重で世界を支えるヒロイックな仙人様から、その大役を引き継げと、主人公は告げられる。ところが少年は、心のままに拒否し、俗世にもどることを選択する。このあたり、ひょっとして作家は陶酔しながら描写していたのではないかと、ふと思う。ところが、劇場でこのクライマックスがエモーションをかき立てたようには感じられなかった。大向こうに呑ませるなら、これはもっと手間をかけるべきレシピだからだ。前日の夜から丹念な仕込みを重ねてはじめてお出ししていい深淵が、何やらレトルトパックから取り出されてきたみたいに見えてしまう。これまた難解というより、単に欠落して見える。8年かけているのだから、手間暇かけてないはずがないことを思うと、なおさらいたわしいが、作家当人からしてみると物語の段取りに尺を割くことはもう無意味なのだろう。あるいはこの手のショートカットが視覚的に顕著なのは、『ハウル』にもあった扉の描写だ。これも作家にとっては当然のモチーフとして一貫しているのかもしれないが、バックドアなんてあってはならないと、私は言いたくなる。

 ……何ていうか、ご本人が嫌うであろうところのITなんかと意外に通じるところあったりするんじゃないだろうか。今回見ていて、飛びまくる物語と入ってこないエモーションに、ふと生成AIが思い浮かんだ。使っているんじゃないの……? なんて疑念はまったくない一方で、作家の思考の構造自体が意外とAIに通じるところがあるんじゃないのと思えてしまった。引き出し多すぎてキャラクターより背景の粒度が高い問題は、相変わらず放置しているように見えるし。

 最後に個人的なことを言うと、この映画がモチーフとしてマザコンを持ち出してきたことは意外でもあり、同時に納得感もあるのだが、マザコン観(なんだ、それ……)のちがいにこれまたたじろいだ。まあここで語ってもしかたないことなのですが、わたくしのマザコン観を体現しているのは、コメント欄に書いた歌詞を作詞したロック歌手であり、それを一言で言うと「帰れる子宮はない」という感覚なのです。優しい思い出は、老いと死の匂いにもまみれており、しばしば悔恨をも伴う。だからこそ何度でも思い出す。晩年にボケちゃった母親が夢に出てくることがあって、俺はおそるおそる肩を抱きながら「ごめん……ママは、もう死んじゃってるんだよ……」と諭す――そこで目が覚める。「死にたまふ母」ではないが、死が思慕にぼんやりと輪郭をもたらしながら、煙のように消えてしまう。そんな瞬間が何度もめぐる。わたくしのマザコンは「長距離電話」のそれであって、それ以上でありたいとは思わない。ところがこの宮崎駿という人の感覚は、ちがう。信じがたいことに、母親をよみがえらせるどころか、若返らせ、少女に仕立てて、ムギュウしてくれちゃうのだ。

 わたくしの儚い願望としては、この映画には美しい「羊水波打ち際」が出てくる。空も海も当然、黄昏だ。このシークエンス、『千と千尋』に出てくる列車のシーン同様、彼岸の匂いが切ない。俺は、ここで2時間ぼんやりしていたかった。そして、そこではしゃぐ僕は、いっときの幻に過ぎないはずなのだ。ところがこの作家ときたら、御年にして黄昏に飽き足らず、巻きもどろうとする。波打ち際ではしゃぐのに飽き足らず、子宮に向かって一直線に船を漕ぎ出しちゃうのだ。マジで……? 「おまえは死の匂いがする」って主人公が言われてたけど、そのうち景色は極彩色の真っ昼間。どいつもこいつもテキーラあおったみたいにギラギラとハイなエネルギーをみなぎらせて、どこが死の匂いや……。そのうち光るゲートやらインコの軍団やらが押し寄せてきて、何だこれ、クレしんか? 大霊界か? なノリに悶絶していると、喰らえとばかりにフンを垂れまくる。暴挙も甚だしいのだけれど、ええと、そもそもこれ、何の映画だったっけ……?

 君たちはどう生きるか

 その退かぬ媚びぬ省みぬ魂の強靱さは、見ておいてぜんぜん損はなかったと思えました。

(評価:★3)

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