[コメント] エンドロールのつづき(2021/インド=仏)
しかし、この、線路と列車、近くの小さな駅周辺が、全編に亘ってとても良い後景になる。しかも、シネスコのアスペクト比が非常に効果的に使われており、見る快感に溢れる画面を多々作っている。例えば、少年たちが線路を行くのを横からおさめたショット。ライオンを草陰から見る少年たちの、顔が横に並んだショット。
サマイのお父さんはバラモン(カーストの最上位)の家系だと云うが、今は、駅の線路脇で露店のようなチャイ店をやっていて、サマイも手伝う。後のシーンで、お父さんは、かつて500頭もの牛を持っていたが、兄弟に騙し取られた、という話が出て来る。お母さんは、とても綺麗な女性で、この人をもっと見ていたい気になるが、ほとんど料理している場面ばかり映る。ただし、本作はこの調理の俯瞰ショットも一つの見どころで、美しい画面を作るし、全部美味しそうだ。
サマイがお母さんの作ったお弁当をあげることで親しくなった映写技師のファザルはムスリムだ。彼は、映画とは物語、と云うが、サマイは、プロットを作る(考える)ことよりも、すぐに「光」を意識し始める。あくまでも光が先にあり、光が物語を作る。光への志向性が一番に描かれているのが、本作の良いところだと私は思う。映写機の光は勿論のこと、それだけでなく、色々な色のガラスの破片を線路に立てて、その向こうを覗いてみたり、鏡での太陽光の反射に心を奪われたりする。私が「本作の良いところ」と感じるのは、これにより、良い画面が導かれるからだ。
さて、邦題の悪口を書くのはもう自粛しようと思うが、本作の原題は「ラスト・フィルム・ショー」であり、劇中のあるシーンを明確に意味している。と同時にフィルム上映がデジタル上映に変更された映画産業のプロセス変革をも意味していて、邦題では全く伝わらない、興趣のあるタイトルなのだ。映写機とフィルム缶の詰まった沢山の箱はトラックに積まれて、大きな町(ラージコート)の工場に運ばれる。そこで主人公のサマイは、映写機もフィルムも別のものに再生されるのを見るのだが、何に変わったかは、ネタバレでもないかも知れないが、一応伏せておこう。しかし、特にフィルムが再生されて、それを使う人々を紹介する画面では、作り手が影響を受けた映画監督の名前がオフのモノローグで読み上げられる。この演出には、決して諦念ではない、希望の光が力強く描かれていると私には感じられた。
ちなみに、本編前の献辞も含めて、多くの映画監督名が出て来るが、デビッド・リーンやキューブリック、タルコフスキーが最初の方に上げられているのは特別な愛着があるのだろうと思う。本作劇中で「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れる『2001年』パロディのシーンもある。日本人では、勅使河原宏、小津、黒澤明の3人だけが上がる。ハリウッド・クラシックの偉大な名前が一人も出てこないのには、かなり偏りを感じる。
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