[コメント] ミッシング(2024/日)
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本作は、もしその当事者になったらどう生きて行けばいいのか?を描く、サバイバルをテーマにした作品のように思った。
プロ野球の試合が終わると始まるのが、負けたチームのファンによる裁き。ベンチの采配、捕手のリードに切り込み、「今日の〇〇はダメだったが、次は頑張れ」ではなく、「2軍に行って二度と戻ってくんな」「プロ失格」「あの場面の続投は草」とか、敵チームのファンには「え?そこまで酷くなくない?」と、思いもつかない罵詈雑言が浴びせられる。選手やベンチは、職業柄ヤジに対する心構えは多少あるだろうが、その心構えとは、ゲームという虚構の劇場の「劇作品の役者」として役を演じ切れなかったことを批判されているのであって、役から降りてしまえば原則としては本人とは無関係である(そうでない場合も多いが)。ところが本作のような「面白い事実」が報道を通じて演出で磨かれて「劇作品」として昇華されてしまうと、当事者はプロ野球選手のような役割を担わされる。人気商売の職業柄の責任でもなんでもなく担わされる。イニングがないから終わりが見えないでいつまでも続く。切り替えて明日やり直しもできない。こんな地獄に耐えられますか? あなたならどうやって生きていきますか?を疑似体験させる作品だと思う。
本作はおそらく「山梨キャンプ場女児失踪事件」にインスパイアされたものだと思うが、この事件で女児の夫婦を誹謗中傷し逮捕された2名は、自分は何も悪くないという「正義」を最後まで主張したらしい。この「正義感」の正体を描いたのはこの監督の『空白』だったと思うのだが、本作は、正論も悪意も味噌もクソも一緒くたになった裁きが起こることは今の社会では当面不可避であり、それはわたしたちの個人的なことが劇作品としてエンタメ性をまとえばたちまち裁判が始まり、いつの間にかその被告になってしまうということが誰の身にも起こることなのではないか、というメッセージを伝えようとしたもののように思う。つまり「裁かれる立場」は明日は我が身であり、もしそうなったらどういうふうに行き抜いていけばいいのか、というサバイバルをテーマにした作品なのだと思う。
石原さとみと森優作は、人を不快にさせるタイプの人間という役を熱演。おそらく観客もまんまと不快に感じたのではないだろうか(特に私は男なので、石原さとみ演じる妻の「自分と同じ温度ではない」ことに向けられる敵意にはとても心当たりがあり、青木崇高演じる夫はよく我慢したな、と感心した)。つまり中村倫也演じる作り手の想定外に、本作内の「劇中劇」の中でこの2人は「モラルを犯した悪人」というふうに表現され、いわば敵役として形成されていく。この映画の観客もいったんそこに乗せられる。フィクションが作り手の意図とは別の表現になってしまうことは本作ではあまり深掘りしない(ただし誕生日やビラ配りで落胆するヤラセの描写による「作為」の存在には触れている)。まずは部外者の視点を持たされる。そのうえで、その適役側の視点にシフトしていく。そうやって観客は部外者から当事者の視点に誘導される作りになっている。
本作の答えはそこにあると思う。当事者でなければ正しいことはわからない。つまりもし万が一裁かれる立場になり、部外者たちから誹謗中傷を浴びせられセカンド、サードレイプされ、絶望に突き落とされたとしても、当事者側にたってくれる人は必ずいる。現れる。夫婦に協力を申し出る後から子どもが失踪した事件の当事者親子のように。「いつから狂ってしまったのか」と言われるこんな社会でも、そういう希望の在り様、可能性を描き、生き延びて行ってください、ということを、そしてその狂った社会の在り様を知り、それを改めなければという思いが必要なことを伝えようとした作品だと思う。
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