[コメント] ナミビアの砂漠(2024/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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男女関係をひっくり返してみると、古典的なDVメロドラマがあぶり出しのように浮かび上がる。カナ(河合優実)が男だとしたら、である。料理は作らない。自活能力がある。オトコ二人がなんでこんな不思議ちゃんに惚れ込むのか私には理解不能だが、だからこそのメロドラマなんだろう。同棲は共依存、SとMの関係。口髭がタイプらしくホンダ(寛一郎)を断わりもなく見切ってハヤシ(金子大地)に走って鼻輪をつけ、ここからが本番とばかりにタイトルが出る。カナにとっては妾を替えたぐらいのことだ、別に貢いではいないが。
家事一般を引き受けてススキノの風俗に上司に連れて行かれたのをわざわざ告白し、絶望的に謝り続けるホンダの異様さは、かつて家に縛り付けられ、ただ一度の過ちで離縁の危機に曝されるメロドラマの妻一般を彷彿とさせる。一方、カナはホンダのことなど気にもかけない。すぐ忘れてしまうし、これ以降も思い出すことはあるまい。中盤、ホンダはカナを見つけ出し、私の元に帰ってくれと涙ながらに頼み、路上によよと泣き崩れる。ここなど家父長制で味わった不条理を男どもも味わえと女性一般から叱咤されている具合である。
太陽の塔のオブジェを部屋に飾っていたりするハヤシは、同居により共依存のMの位置に収まることになるのだが、今度は共依存の歯車は合わない。情念の妻が理性の妾に替わったような具合だ。空気みたいなホンダとは違うのだ。カナはこれに苛立つ。少子化で日本は滅ぶと予告し(この発言をどう捉えるかによって映画の感想は変わってくるだろうが、演出にはホラ話のニュアンスがある)、おかしいのはアンタだもんねと断定し、相手の過去の堕胎の写真を大事に保管していてここぞと云うときに攻撃を仕掛けたりする。もっぱら印象に残るのはハヤシの、怒りを理性で押さえようとする振る舞いであった。メロドラマにおいて、ここぞと云うときに理性に訴えるのはつねに弱者である。ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法が想起される。
映画は主人に反省の機会を与えようとする。転倒して車椅子生活を体験する。客に美容整形の悪口云って失業する。ネットで精神科医に相談する。私としてはここが詰まらないのだが、この医者もまたいい加減な人物である(カウンセリングは週一45分で8千円と云っている、あなた払えます?)。まあ、治療は必要ないとの診断なんだろう。値段の手頃なカウンセラーを紹介され、この会話が面白い。女先生は、人は考える分には自由だと語る。カナは例えばロリコンは考えただけでも犯罪ではないのかと反論すると、貴女はなぜロリコンの例を持ち出すのかと逆に質問される。
以下、英語習えと隣人に云われたり、中国人家族がスマホに出てきたり、砂漠で鹿が水呑んだりして映画は終わる。総合すれば、越境への誘いということだろうか。NY育ちのハヤシの近親はハイソな別世界の人々として描かれていたが、あっちへ行くのだろうか、いかないのだろうか。中国語の単語唱えて腐れ縁の二人の登場は終わる。まるで結構整えない畳み方は上等。「以上、ナミビアの砂漠の動物の生態をお伝えしました」という纏めだろう。そういえば主人公は冒頭から、女友達の話より隣のノーパンしゃぶしゃぶの会話ばかり聞いていた。
戦後の妾もののメロドラマは、崩れゆくだろう家父長制社会、実現されるだろう男女同権社会、という希望を胸に収束に至ったものだ。比べるに本作はどこへも向かわない。ここはすでに終着点だろうか。大きな物語(リオタール)はすでになく、ただ多様性がある。有りがちな「行き過ぎたフェミニズム」に対する保守的なやっかみは丁寧に排除され、ロリコンまで肯定される。70年代のロマンポルノなら、物語はホンダ君乱入の猟奇事件に至っただろう、そのような平凡も的確に回避され、スプラッターシーンはおろかセックスシーンもない。この三人の事例は雑多な多様性のひとつでしかなく、共感できませんでしたとは子供みたいな感想だが、別に共感する必要もなく、この程度で悩んでいるのは天下太平の証拠、人生いろいろ、深刻な『ナイロビの蜂』とは真逆という感想が残った。
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