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[コメント] 沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇(1995/仏)

朱に交われば血に染まる。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 映画では女二人が揃うとろくなことがないことが多い。平凡な主婦たちが満身創痍で破滅へと突き進む『テルマ&ルイーズ』、仲良しの女の子の純粋な想いが殺意へと結晶する『乙女の祈り』、愛と連続殺人のロードムービーである『バタフライ・キス』、古典的な『悪魔のような女』、そしてこの映画。つくづく女二人が揃うとろくなことがないと思う。

イザベラ・ユペールサンドリーヌ・ボネールは個人的に二人とも苦手なタイプだ。確かに美人なんだけど、底意地の悪さと冷たさがそこはかとなく漂ってくるそのルックス。その二人が共演するとはこの映画の人選には参った。それだけでも高得点だけど、『バタフライ・キス』で狂気の女を捨て身で演じたアマンダ・プラマーに較べるとサンドリーヌ・ボネールの狂気を孕んだ意地の悪さも常識的すぎて物足りなく感じる。しかもこの映画では識字障害のせいで一見癖のあるように思えるユーニスよりも、ジャンヌの狂気の渦巻く屈折した精神のほうが遥かに重要な役割を果たしているので、その点でも気にかかってしまう。

さて、ユーニスが識字障害を隠そうとする心情は文盲率がほぼゼロであろう日本人には理解不能だろう。その劣等感と恥辱はアイデンティティの致命的な本質部分にかかわっている。だから我々にできることはより軽度な劣等感や恥辱を想像力を駆使して濃縮し、せいぜい類推するだけ。例えば、女の子なら多いと思うけど、視力がかなり悪くても眼鏡をかけるのを拒む。中には彼女が視力が悪いことを周囲も知っていて、眼鏡の掛け外しに暗黙の了解が成り立っている場合もあるだろう。しかしかなり視力が悪いのに、視力のよさより見栄えのよさのほうをとって、どうしても眼鏡をかけなくては見えない場合でも裸眼(周囲に分からないように目を細めたりして)で通そうとする人もいるだろう。視力が悪いことを隠そうとする人もいるはずだ。そういうときに視力が悪いことに対して恥辱や劣等感に似たものを感じるのではないか? そもそも極度に視力が悪い人は視力検査を嫌うはずだ。なぜなら劣等感を再確認し、晒し者になるという被害妄想的な検査の場で恥辱がぶり返すから。視力が悪いことは別に悪いことでもなんでもないが、表現的には“悪い”と表記するし、そのことに劣等感や恥辱を感じずにはいられないのは、人は「目が見えるのが自然(当然)」だから。同様に現代社会、しかも文盲率がゼロに近い先進国においては人は「読み書きができて自然(当然)」なのた。視力の悪さの場合はその人の能力の制限になったり影響を与えたりすることはあっても、価値そのものにはほぼ無関係だが、文盲であることは時にその人間の価値すら否定しかねない。コミュニケーションの基礎である「読み書き」の能力の欠如は、人間関係をうまく築けない原因となり、さらには能力や感性や人間性そのものの欠如へと繋がる(と思われやすいし、逆に文盲の人は被害妄想的に思い込みやすい)。

ユーニスが文盲であり、コミュニケーションの能力の部分的な欠陥はどこか人間性の欠陥と密接している。こう書くと「文盲であることが欠陥であり、殺人の原因なのか?」と抗議されそうだが、映画の製作者側もその点は配慮していて、若者らしく正義感の強い娘は両親のスノッビーなブルジョワ意識に対して再三「ファシスト」だのなんだの批判するし、ユーニスの識字障害を最初に察するのは彼女だし、お為ごかしではない善意からユーニスに「読み書き」を教えようとするのも彼女。娘は「文盲=人間としての欠陥」であるユーニスの味方であり、その欠陥部分を善意から埋めようとするものの、逆にユーニスによって侮辱的に脅迫される。娘の正義感とユーニスに対する善意は文盲を差別的に描かざるをえないストーリーであることの予めのエクスキューズになっている。しかし娘がユーニスに拒絶され、侮辱され、脅迫されるにいたって、観る者は娘に対する同情を覚え、ユーニスに対する反感と嫌悪を感じるはず。その場面まで製作者は「文盲=欠陥」という意図をできるだけ隠蔽していたが、そこにおいて「文盲=欠陥」という(差別的な)意図が表面化し、観る者の義憤という暗黙の支持を得て堂々と肯定する。つまり、人権主義者たちに配慮していたのである。ただしクロード・シャブロルルース・レンデルに偏見的な差別意識かあるといっているわけではない。

文盲であることの劣等感は計り知れない。ただ、劣等感で一番問題になるのは、被害妄想によって内攻する自虐癖だろう。つまり、他人が自分を傷つけ貶めると思い込んでしまうことによって、他人を恐れたり、敵視したり、その反動として軽蔑したりする結果、他人と円滑な関係を保てないだけでなく、接触することに無関心になったり、関係がストレスになって摩擦しか起こせなくなる。挙句の果てには他人に傷つけられることを恐れるばかりに自分の殻に篭もり、劣等感を受け入れることによって自分の不遇を正当化(自分をごまかす)するために自分で自分を貶める。しかも被害妄想の中で他人が自分を傷つけ貶めるよりも、一層酷く自分で自分を傷つけ貶める。しかし自分で自分を傷つけたり貶めたりする方法は、予見してるし知悉してるしため決して致命傷にはならない。その予定調和的な甘えにも似た心地よい自虐意識の温床で、自分が劣等的な存在(奴隷)であることをしぶしぶ受け入れるのだ。しかし奴隷であることを受け入れるのは、自分が他人によって傷つけられないで生きていくための消去法的な非常手段であり、必ずしも全面的に納得しているからではない。精神の内奥では奴隷であることの不条理に対する怒りが燻りつづけ、いわれのない劣等感を与える人々に対する偏執狂的な羨望や反感や憎悪が抑圧されて煮えたぎっている。

その羨望や反感や憎悪を殺意(というより実際には殺意なき殺人のようにも思われる)に転化した触媒がジャンヌの狂気なのだ。ジャンヌも劣等感を抱く女として描かれている。だがそれは静のユーニスに対すると動と形容されるのがピッタリ。彼女の劣等感はブルジョワ一家に対する覗き見好きなおばちゃん感覚的な羨望からきている。彼女はブルジョワ一家の母親に若き日にミスコンで負けたことを根に持っている。結婚していたものの夫婦間はうまくいかず、子供も(彼女の話では:はっきりいって信憑性には疑問)過失で火傷をさせてしまい、幼くして失ってしまう。彼女にとって近くて遠いブルジョワ一家は「もし順調だったら当然自分があのような家族を築けたであろう」家族のモデルタイプだったのだ。彼女はブルジョワ一家を築けなかったことの原因を自分の非には求めず、自分を否定するよりブルジョワ一家そのものの価値を引き下げて否定する。自分を肯定するために周囲を否定する。否定する材料を見つけるために信書を開封して盗み見し、悪い噂を流布して自分が流布したくせに自分でそれを信じる。ルサンチマン。彼女か教会の熱心な信者であることが何よりの証拠。彼女は善意を解さない。自動車の故障を直してくれた娘の善意を認より、娘が故障を直した時に汚れた手をぬぐった自分の汚れたハンカチに悪意を認める。教会に対する善意の寄付にして善意に感謝することを知らない。他人の善意を解せず、ひたすら他人を敵視し、自分の不遇の原因を他人に転嫁する。同じように劣等感の虜だったユーニスと共鳴して徐々に親密になっていき、感化しながら一心同体的な関係になった時、ユーニスの抑圧された強烈な負の感情を殺意に転化したのも、彼女のルサンチマンのせいなのだ。このユーニスの抑圧された負の感情がジャンヌのルサンチマンを触媒として化学変化を起こして爆発し、一家惨殺へと至る過程は展開的に秀逸で、原作に拠るところが大きいだろう。両女優の演技の質(特にユペール)も素晴らしいが、やっぱりサンドリーヌの狂気は平凡な感が否めないので4点にしたいが3点にする。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)おーい粗茶[*]

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