[コメント] 幕末太陽傳(1957/日)
冒頭、現在(昭和32年)の品川のシケた景色が映し出され、すべては茶番に終わることが暗示される。そして繰り広げられる馬鹿騒ぎ…。終幕を迎えた「江戸」への惜別の宴―
はしゃぎまわる人々の誰も「江戸」が終わろうとしていることに気付いてはいない。高杉ら長州の浪士たちだけがそのことを知っている。不敵にも彼らは自分たちの今いる世界を焼き払うつもりでいるのだ。しかしその彼らもまた、彼らの作り上げる近代日本が太平洋を血に染めた馬鹿騒ぎの末に崩壊することなどは、知る由もない。私たちは知っているが。
そして昭和32年、焼け野原と化した日本が高度経済成長へと差し掛かった年、我が世の春を謳歌する太陽族を幕末の浪士になぞらえる川島雄三は、自分の生きる戦後の繁栄もまたいつかは終わりを迎えることをひっそりと予見している。結局同じことの繰り返しなのだ、と。
この映画が作られて50年後の今、輝かしかった戦後も黄昏を迎え、私たちは何度目かの「茶番と化した後の世」を生きている。「戦後」が終わろうとしていることに気付こうともせず誰もがはしゃぎまわったバブルの日々。陽気な葬式のようなこの映画の言う通り、馬鹿騒ぎは繰り返され、すべては茶番に帰すのだ。
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