[コメント] 国宝(2025/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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原作小説は未読。
作り手の歌舞伎への愛が深すぎるのか、原作への想いが強すぎるのかあるいは生真面目すぎるのか分からないが、映画としてのクライマックスを定められずに彷徨っているように映った。
喜久雄(吉沢亮)が半二郎(渡辺謙)の代役に抜擢されて立つ舞台。これだけでクライマックスになり得る場面なのだが上映時間的にそんなはずはなく、その後、喜久雄と俊ぼん(横浜流星)が再び共演する舞台もクライマックスとして設定されていない。この辺りまで来てやっと本作が喜久雄の一代記なのだと気づいたが、そのようにする必然性を見出せなかった。
そもそもクライマックスにしようにも、血を持つ者、持たざる者それぞれの苦悩や愛憎があまりに表面的にしか描かれておらず盛り上がらない。
駆け落ちにドサ回り、酔っ払いに絡まれ境遇を自嘲しあげく殴り合いなどを演じるわけだがどれも紋切り型で心を搔きむしられない。しかも表舞台から去って他所で演じる場面が2人ともにあり、同じようなものを見せられる構成は率直に言って疑問。
それらを見つめ続ける女優陣はみな好演なのだが残念ながら映画はそちらには寄り添っていかない。
そして終盤、カメラマンとして娘が目の前に現れるのも取って付けたようで興醒めで、その娘が「あなたが舞台に立つためにどれだけの人を犠牲にしてきたの」的なことを言っても振り返ってみて「そんなに犠牲にしてきたっけ…?」としか思えなかった。
その娘と昔、「悪魔に魂を売る」云々の場面があったけれど、そこのセリフも妙に浮いていて「言わせたかっただけ」の感があり、この辺りでこの映画をだいぶ疑い始めていた気がする。
俊ぼんの糖尿病の遺伝も運命の皮肉を感じさせるまでには至らず、なぜ至らないのか考えると俊ぼんのカムバックにこちらを納得させるような彼の苦難の道のりが示されていないからだ。 終始モヤッとするのは、結局のところ俊坊に実力があるのかないのか判然とせず、彼をどう捉えるべきなのか分からない。
いやそれ以前に2人ともキレイすぎるのだ。そんな苦労してるとは思えない顔カラダ。宿命にもがき足搔き、それでも舞台では美しく…という姿を描きたかったのではなかったのか。
また、劇中何回も「○○年後」とか「19△△年」と挟まれるのだが実話でもない話でこんな形で幾度もぶった切る必要があったのだろうか。何年後でもいいってば。 加えて言えば南座の正面のカットもしつこい。サザエさんじゃないんだから…。 最後の喜久雄の舞台も長すぎてラストシーンが容易に想像できてしまうのが残念だった。
とはいえ三つ褒めると、渡辺謙の代役を務めた舞台での吉沢亮は素晴らしかった。描き切れていない葛藤を補って余りある飛躍で、それだけにその後だらだらと続く展開が物足りなく映った。
それと、喜久雄の少年時代を演じた黒川想矢の真っ直ぐで曇りのない瞳。彼の存在がその後の喜久雄像を補完して映画に繫ぎ止めてくれた。何ならずっと少年時代でもよかったくらいで、『キル・ビル』風のオープニングをもっと観ていたかったとさえ思う。
最後に渡辺謙。これまで渡辺謙の演技を良いと思ったことはあまりないのだが、今回は円熟を感じて頼もしかった。
決して悪くない要素がスクリーン上に確かにあるのに、見せ場になり得る場面の横を虚しく通り過ぎていくような、手のひらから何かこぼれ落ちていくような勿体ない映画に思えた。芸を扱っておきながら映画そのものに芸がなかった。
予告編に魅かれて観に行ったわけだけど、予告編で印象的に使われていた場面・セリフはどれも映画中盤までのものだった記憶。結局、そういうことなんだろうと思いながら最後まで観た。
★2.5
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