[コメント] 昭和残侠伝 血染の唐獅子(1967/日)
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『日本侠客伝』のマキノ雅弘が遂に本シリーズを初めて手がけた作品である。
本シリーズの醍醐味は言わずと知れた「道行き」のシーンであろう。高倉健が独り仇討ちへ向かうと待ってましたとばかりに『昭和残侠伝』の名曲が流れ出す。1番の歌詞が終わりかけようとすると、そこには池部良がこれまた独りで立っている。曲が止み、「ご一緒させて貰います。」と池部良。ここで再び2番の歌詞が流れ、高倉健と池部良の男の美学が完成する。
だが4作目となる本作で、マキノ雅弘は掟(形式)を破った。高倉健と池部良は最初から仲良くふたりで家を出、当然ながら途中での男同士の損得を超えた邂逅は無い。曲も1番・2番の区切りも無く、「だらしなく」垂れ流される。しかも今回は津川雅彦という「おまけ」まで付いての道行きであった。さらに言えば、三社祭という設定で仕方が無いのだろうが、三人は人ごみを掻き分けての道行きである。
私がカタルシスを感じる「道行き」とは、アノ曲が途切れる瞬間と再び始まる瞬間に凝縮されるのだ。曲が止まり、短い男同士のやりとりの時間は私の呼吸は停止状態にさせられ、再開されると同時に至高の気分で息を吐き出すのである。
そして人気の無い土手を覆う静寂が、ふたりの男の捨てなければならなかった「人情」とこれから負うべき「義理」を「秤にかける」残酷で冷静な静寂だったはずなのではなかろうか?祭りの賑わいの中で、彼等はこれまでの人生を「秤にかける」ことが出来たのであろうか?
PS,私は湯島っ子である。本作の舞台・不忍の池のほとりが実家である。神田・湯島・上野・浅草と街は並んでいるが、通りを隔てればよそ者である。東京博覧会が不忍の池に決まったといって手放しで喜ぶ浅草っ子にはどうしても違和感を感じてしまう。半径3キロ程度の小さな事にいちゃもん付けるようで気が引けるが、違うもんは違う。それぞれの街に誇りがあるからこそ「違うもんは違う」と言い切りたい。
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