[コメント] 歌麿をめぐる五人の女(1946/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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焦点が合っていない(文字通り、物理的に合っていない)せいで、ぼんやりした画面が頻出するのも、これはこれで当時の一つの演出なのか?などとも思えてくるが、やはり違和感が。仕舞いには、画面が小刻みに震える手ブレ映像まで現れるのには、呆れ返る。当時はこれでも許されていたのか?この手ブレも実は演出なのか?
とはいえ、台詞のかけ合いの江戸っ子的な小気味よいリズムは酔わせてくれるし、寄りの少ないモノクロ映像は見難いものの、被写体そのものは魅力的なので、全く飽きずに楽しめる。寄りが少ないのは、スクリーンの大きさを顧慮すればあながち失敗とも言い切れないし、テレビ画面で観た僕には成否の判断は下し辛い。
現実の女ではなく、女という存在の「生き霊」を写しとっているのだと言われる歌麿が、浮気者の恋人と恋敵とを共に刺し殺した‘おきた’(田中絹代)の訪問を受ける場面に、この映画の主題が端的に表れている。この恋敵は元はと言えば歌麿が、その肌の美しさに惚れこんで、その背に彫る刺青の下絵を描くのを買って出た女。女が刺青もろとも駆け落ちした時も歌麿は、生きた女なのだから絵のように留め置ける筈もない、とあっさりしたもの。その女が最後には、生きた女の情念の権化と化したおきたに刺されて、その遺体の肌に描かれた女の絵を晒すショットは何とも因果なものを感じさせる。
で、この殺人者おきたは歌麿宅で皆に別れを告げるのだが、その場にいる女たちに「女の生き様が分かりました」と感謝の言葉さえかけられる。そんな彼女と、歌麿の絵の死せる支持体(紙やキャンパス等をこう呼ぶ)と化した女の死に様が何とも対照的。
歌麿が、モデルとなる女たちの肉体に求め続けた「生き霊」は、生身の女たちを破滅させる魔性のもの、デモーニッシュで過剰な情念。女たちの裸体を求めて縋りつき懇願する歌麿は、だが、その手は女の肌に触れつつも筆と紙に向かうのみであり、女の肉体そのものを求める場面は出てこない。その、官能を求める不能性とも呼ぶべき芸術家の業と共に、芸術が道徳や社会性を踏み破ってしまう過剰性をも同時に示しているのが、殺人者として自首しに向かうおきたを見つめる歌麿の、手錠で縛られた両手がままならぬ姿で「絵が描きてえ」と呟く場面だと言える。
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