[コメント] キューポラのある街(1962/日)
吉永小百合が愛らしい。それだけで物語への回路が開かれる。
…というのはウソで、確かに若き吉永小百合は愛らしいけれど、ただそれだけで映画になるわけはない。エレジーに流れそうなところも笑って(慈しんで)見ていられるように構成したのがエラいところだろう。
…と、書いてみて、ふと大島渚の『愛と希望の街』というデビュー作があったことを思い出した。そちらはこの映画の3年前の59年の製作。そのもとの題は「鳩を売る少年」だったそうだが、3年後のこの映画にも鳩を売る少年は登場している(吉永小百合の弟)。作り手や製作者は意識していただろうか。
吉永小百合の愛らしさ、とは如何にも通俗的な感じ入り方ではある。しかしそんな回路があれば、今この自分でも、その物語に入っていける。その物語に登場する人達の人生を思い遣ってみる感受性も生じる(たとえば北朝鮮に帰った家族達のこととか)。「愛と希望」は幻想だが、不可欠な幻想なのだ…。それを語るのは作り手の良心とも言えよう。
…しかし大島渚のデビュー作を改題させたのは、製作者(松竹)の意図だったとも言う。幻想の需要と供給という資本主義的構造があるのなら、それを乗り越えたいというのも、作り手の良心ではある…。どちらも間違ってはいない。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (3 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。