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[コメント] 切腹(1962/日)

ヒグラシの声の中、浪人が語リ出す奇妙な物語は、上質なミステリーとして聞く者をとらえて離さない。この尋常ならざる「静」の迫力はどうだ!
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







主義や信条で謳われていることの本質というものは、共有しようとした時点ですでに歪みが始まっていくものなのかも知れない。歪みは、それを理解できない無知や、作為で解釈がねじまげられることよりも、各々が自分の出自に無自覚でありながら、自らの潔癖感、正義感に従って「自分に都合のよいようにとらえる」ことで生じるからこそ始末が悪い。当の本人たちは純粋に正しいと思っているから、他の人が「おや、ちょっとその解釈は違うかも」と思っても、さほど徹底して批判されるようなことにはならないで、何となく「そういう考えもあり」と認知されてしまう。主義や信条が個人の恣意で運用されだす始まりである。人間の潔癖感や正義感とは、実はその人の差別意識や優越感、虚栄心とつながっているものであるから、一見正しい行いをしているに見えて、実は他人を愚弄したり、攻撃したりすることが目的で主義や信条が振りかざされる。井伊家の家臣のしていたことは正義の名の元に行われた加虐である。その正義は根っこで己の快楽とつながっているものであり、それを満たすために主義・信条が道具となったというべきであろう。そんなおそらくは誰もがいたるところで見たことのある光景の「本質」を、これほど面白い物語を通して鮮やかに切り取って見せてくれるのだから橋本忍は凄い。主義や信条という「共通概念」自体の本質をよくわかっている斎藤勘解由という人物が、主義・信条を生き続けさせるためには、それらから個人を切り離さなくてはならないと断じている点を描いているところもいい(彼のような初期の官僚たちのマネジメントがあったからこそ、「武士道」は、何度も泰平安楽の世を経ながら、200年もの先、幕末の志士たちの時代にまで生き永らえたのだ)。

sawa38さんのコメントにあるように、津雲半四郎がお家の恨みをはらすために井伊家を選んだのだとしたら、津雲が挑んだ戦いが「個人と主義の対立」ではなくなって、お家とお家の対立のように感じられてしまい、なにか矮小化されてしまうような気もする。読んでないからわからないが、案外サンデー毎日に掲載された原作が描こうとしたものから、今日にも通じるようなテーマに引き上げたのは、橋本忍の慧眼なのかも知れない。

余談ですが、人間へのあまりにも優れた関心と洞察力が、等身大の人間と人間の間に起こるドラマから、この後『日本沈没』などの俯瞰的な人間論へと高まっていって、やがて行き着いたのが『幻の湖』のような観念の世界だったのかと思うと無常を感じます…。

小林監督の制御された緊迫した描写も圧巻で、手に汗握り固唾を飲んで見守るというのは正にこのこと。唯一気になるのが、人物の影が四方に伸びて照明を意識してしまうところ。特に塀の陰で待ち伏せしている人物の影と、それに気付かずに歩いてくる人物の影が正反対であることは、「いつ切りかかるか」の目線で観ている身には、思いもよらぬところから影が出てきてがっかりではあった。でもそんな些細なことはなんら評価に影響しません。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ぽんしゅう[*]

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