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[コメント] 許されざる者(1992/米)

黄昏れる世界。英雄と正義(幻想)の殺害もしくは自殺。真『ヒストリー・オブ・バイオレンス』。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







いくら自虐的に豚と転げ、贖罪と禁欲の中で手を泥に汚したとしても、血で汚れた手はぬぐえず、言い訳と憎悪と歴史の円環の中で、殺人者達の「血」はめざめてしまう。

正義と暴力の表裏一体をシステムとして抱え込んだ、「贖罪」を許さない世界の非情。血まみれの正義。遂に人は"UNFORGIVEN"として在ることしかできない。そんなことに無関心であるかのように西部の荒野は黄昏れ、また夜明けを迎える。

この物語が優れているのは、この「大義という言い訳」に向けた暴力の「自己陶酔」に「自覚的」であるということ。そしてその自覚は世界、アメリカ、西部劇、映画、イーストウッド自身相互の関係性の中で行われる。贖罪だ何だといいながら、妻との思い出を語り、泥の中で転げまわるイーストウッドは十分過ぎるほど自己陶酔的だ。その反動として、彼が、彼自身に下す「審判」の厳しさ。目覚めた暴力に泥酔した彼に対し、ついに"ありがとう"という言葉が投げかけられることはない。

この「英雄と正義(幻想)の殺害もしくは自殺」という彼の問いが何を撃っているかを思い、それが今『グラン・トリノ』における回答に遂に彼が自ら至ったことを思った時、その重みを噛みしめずにいられない。

イーストウッドは「自殺」を繰り返す。もちろんそれは劇中の彼自身の生死如何に関わらない。それも、世界、アメリカ、映画、イーストウッド自身相互の関係性の中で行われる。スクリーン上で自らを磔刑に処することが、彼の映画人としての覚悟なのか。この「客観的なナルシズム」は許せる。まさにこれは彼にしか出来ないことなのかもしれない。

そして重要なのは、暴力と正義の黄昏は、このときよりはるか以前から始まっていたということなのだ。娼館の暴力者は何故生み出されたのか。この物語は、彼を起点として始まった物語ではない。

このまま、黄昏れていくのか、黄昏を超えて夜明けを迎えることが出来るのか。「俺は変わったんだ(=何も変わっていない)」と闇を見つめて呟くイーストウッドの視線の先に私たちは何を見るべきなのか。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)chokobo[*] けにろん[*] ナム太郎

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