[コメント] 続・男はつらいよ(1969/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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2作目。傑作と思う。人物のキャラクターに、初期設定値という感じの初々しさがある。それらの特徴がうまく生かされ、またよく絡んでいる。ハナマルキのCM(おかーさーーん)に結実する例のシーンがそう(※)だし、御前様(笠智衆)に諭された寅がテキパキと仕切り始める散歩先生(東野英治郎)の葬儀シーケンスもそうだ(※※)。
※)博(前田吟)の、義兄を慕う気持ちから来るやや余計な配慮が発端。瞼の母との再会が無惨に終わった寅を迎えるにあたり、どう振る舞っていいか分からないとらやの面々に、普段通りにしていればいい、ただ、お母さんを思い出させることはしちゃいけない、として、「母」や「おふくろ」といった言葉を禁句にする。
※※)それにつけてもこの2人、柴又の近隣住人同士である上に、同じ坪内姓で、娘の名も「冬子」と「夏子」。いったいどういう姻戚関係か何かなのかしらん。
京都のグランドホテル(といっても連れ込み宿だが)での母子邂逅シーンはもちろん凄い。長年夢見ていた母親を取り違えるって、喜劇とは言っても、単なるぬるま湯的な喜劇なんかではないことを思い知らされる。
でも、映画の躍動を最も感じさせたシーケンスは、江戸川で釣れた鰻を手に、喜び勇んで柴又の街を駆け抜け、坪内家に転がり込む、そこまでの場面。この躍動があまりにも唐突に止むために、それだけで散歩先生の死が想起されるという、説明不要の痛切なシーンを産んでいた。
夏子(佐藤)ほど、親身になって寅の身を焼くマドンナはいなかった。そういう育ちのよさみたいな雰囲気を、佐藤はよく表していた。名マドンナの一人と思う。そして、と言うか、それでもやはりか、寅は恋愛対象にならない。ある意味最も残酷な仕打と言えるが、その割に本作に「つらいよ」感は漂わない。納得性の方が高い。思うに、寅のキャラクターにそれを受け止めるだけの強さが充分にあったからだ。そしてその強さは、寅の若さから来るのではないか。
だとすると、本シリーズは、回を重ね、主人公から若さが失われていくにつれ、より「つらいよ」感が増していく。「老いる」のはるか手前、「若さが失われていく」こととの格闘が、「寅さん」シリーズの抱えた宿命だったのではないか。などと思ってみたことでした。
20/8/3記
*これまでのコメント「前作と比べ突如能弁になる佐藤蛾次郎にびっくり。」
⇶ ⇶ ⇶ 備忘的記載(21/10/17記)⇶ ⇶ ⇶
まだ2作目。ラストシーンで寅が京都の実母・キク(ミヤコ蝶々)と一緒に生活(?)してる。本作だけを観ると案外似た者親子と言うか、この親にしてこの子あり感はあるかも。
舎弟の登(津坂匡章)は、前作、上野駅の食堂で寅とケンカ別れしたあと、田舎の実家で父親と衝突、復京した設定。前作のラストシーンじゃ天橋立付近で寅と2人でバイしてたが。おいちゃん寅に「ハガキぐらい出せ」と言ってたが、冬子お嬢さん(前作のマドンナ)には出してた。最後、登が堅気の会社に就職する。将来ある展開。これが旅行代理店か?
漢詩を滔々と吟ずる散歩先生(東野英治郎)に葛飾商業の「英語の先生」のイメージがない。寅「あっしは英語は全然駄目で」、散歩「馬鹿もん!漢詩だ」と、寅にとっては英語先生のイメージだったと。で、坪内先生の死で近所からなくなった「英語塾」を、のちに林寛子(高井めぐみ役)が開いたのかしらん。
本作で寅の舎弟的扱いに昇格(?)した寺男の源ちゃん(蛾次郎)。最初の京都行きで寅に同行してたのに、夏子(佐藤オリエ)と寅がグランドホテル(キクの勤務先)から戻った際には居ない。1人で帰されたか、可哀想に。
前作ほど、寅がマドンナに身の程知らずの恋慕をしてるという描写はない。夏子と医師・ツトム(山崎努)の関係も誰もが知るというほどでない。葬儀から戻ったとらやの面々は、寅がフラれたことを知っていて、その身を案ずる。前作に倣った場面で森川おいちゃんの芝居も絶妙で楽しいのだが、やや強引か展開は。
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