[コメント] 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌(1980/日)
1980年は私が定時制高校の教員になった年だ。山田洋次がこの映画で取材した定時制高校は葛飾のN高校である。定時制の中ではもっとも理念的な学校である。映画中の「試験の成績で落としたりはしないと思うけどなあ、そんなことで人間を評価しないのが定時制高校なんだ」という博のセリフ通りの理念の学校がこのN高校である。校門や教室のロケもここでやったと思われる。
ところで私の赴任した定時制は多摩地方にある高校で葛飾のN高校とは真逆の学校だった。定時制の学習院(この形容矛盾がなんだか無残だが)と自称していたところで、私が4年間担任を持ち上がりで受け持ったあるクラスの総在籍数は64名、卒業生は16名だった。つまり1/4しか卒業していないのである。3/4は留年(落第)したり退学したりしていることになる。その1名1名とサシで話して引導渡すのが私の仕事だった。試験の成績では落とさないが、出席では落としていた。それが学校のやり方である。この欠席で落第させるというのは、現在でも同じである。その根拠は高校が義務教育でないからで、中学校は現在では校長の一存でほとんど出席しなくても卒業は可能である。この映画では寅は校長の頭を殴って退学になったと言うことになっているが、義務教育では退学にはできない。自分からやめた形にするのが普通である。つまりは中学未了というわけだ。話がそれた。結局私はこの定時制高校で12年、異動して単位制の定時制高校で14年教員として過ごすことになった。
私の言いたいことは、この定時制高校の描き方にある種のうさんくささを感じるということ。これは学校シリーズにも感じる。学校教育がそうあってほしい、と思うのは勝手だがそれに定時制高校を使って欲しくない、という思いが生じるのだ。好きな女に自分の思いが伝わらず振られることは世の中にいくらでもあるが、それを人情喜劇のネタにしてほしくない、というのと通じる思いかもしれない。これは山田洋次の映画のせいだけではないように思う。自分の生きている具体的な日常のできごとやそこから生じる感情、意味が一度メディアに扱われると話が別のものになってしまう。そういうことが不可避的に起こる。
これはなんでなんだろう。
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