[コメント] 沈黙(1971/日)
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キチジロー(マコ岩松は企画にもクレジットされている)に密着するのがいい。親兄弟が処刑されたのに自分だけ踏み絵して助かり村八分になったというこの男は、まさに強迫観念のように、その後もカネ(奉行所の報奨金)と信仰との間で揺れ続けるユダ的存在。そしてロドリゴはイエスのように群衆から石を投げられる。
最後は信仰を捨てたロドリゴディビッド・ランプソンの使用人になっている。やはりその後も使えつつ裏切るのだろう。自分より信仰の篤い者を見ると消し去りたくなって役人に売るのだろうか。ロドリゴにすれば爆弾を抱えているようなものだ。
彼は弱さに開き直り、許してつかあさいと売ったロドリゴに謝り、弱虫はどうしたらいいのだとの嘆きを続ける。出身村が信仰から奉行所に滅ぼされても彼だけは生き延びているのだ。彼は錯乱するが、次には氷のように冷静になる繰り返し。
この監督らしい途中参加の岩下志麻も、本作はとてもいい。亭主とふたりで拷問受けている間は「天国が近い」と耐えるのに、亭主だけが殺されそうになると思わず踏み絵してしまい、「この世には神も仏もありません」。というシニカルに達してロドリゴの情婦になってしまう。
ロドリゴも自分のために拷問受けている人たちの呻き声聞きながら、丹波の云う「ここにキリストがおられたら踏み絵をしただろう」にロドリゴが従う終盤はとても苦しい。「愛の行為をなすのだ」。隣で小役人の戸浦六宏は飛び上がらんばかりに籾手して悦んでいる。「(踏み絵は)格好だけでいいんですよ」。
ここまで深いと、キリスト教主題を飛び越えて、役人と拷問の主題が典型的に浮かび上がっている。役人たちは、殺していい者といけない者を独特のノウハウでもって峻別している。最初の村の加藤嘉ほか、ひっ捕らえるべき人物の抽出は巧みであり、その一部を拷問して他の者には見せるだけという手法を取り、小物は殺すが大物は殉教者にしないように殺さず厚遇し、ロドリゴのように座敷牢に一生軟禁する。踏み絵した者にも唾をかけてサンタマリアは淫売と云ってみろみたいな第二弾が準備されている。
この執拗さは、銃と一緒に入国したキリスト教への徹底的な不信感から来るのだろう。これはリベラル思想が中国の対日侵攻とともにあるという本邦右翼の強迫観念と一般である、という感想を持った。
中盤放浪するロドリゴの羽織る、役人に滅ぼされた村で見つけた女ものの赤い着物がいい。この格好で岩場や海岸を放浪する件はパゾリーニ風だ。これは娼婦の三田佳子の着物とWらされている。キチジローはロドリゴたちを売った金で三田を買って「顔に唾をかけて下され」と頼む。磔のまま満潮に沈む十字架のショットも素晴らしい。海の青が素晴らしい。70年代ならではの発色だ。
御詠歌のように素朴に唄われる聖歌と毛利菊枝さんの回想。芥川の引用である丹波の「この国は沼地だ。根が腐り枯れていく」、日本人がしているのは大日信仰に過ぎないという意見を一定支援するようではある。しかしそんなことは、神父が是正すればいい(偶像取り上げるとか)のにと思うがどうなんだろう。当時日本に信者は30万人もいたのだった。
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