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[コメント] 旅の重さ(1972/日)

旅の重さは実存の重さ。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







18歳の女の子(多分文学少女)が四国のお遍路めぐりの旅に出る。公開は72年。72年当時、この映画に写し取られたような日本の風景は、同時代のものとして観客の感覚の中に生きていたものだったのかどうか、それがまず気になった。それともこの時代すでに、それはメディア(映画、テレビ、広告)の中にしかありえない風景だったかどうか。

ともあれ、72年当時のこの映画の中で、母子家庭で母親との強い確執を抱え家を出た18歳の少女は、日本は四国の緑なす夏の風景の中を一人歩く。文学少女であったらしい18歳は家に置いてきた母親に手紙を書くが、それは母親宛というよりは、新しい(未来の)自分へと脱皮したい古い(現在の)自分への言葉のようにも響く。

この主人公のナレーションのような独白は、はじめ説明過多の蛇足に類するものなのじゃないかとも思えたが、文学少女の肥大した内面は、むしろこのような独り語りを必要とするのだろうと思えるようになった。少女にとってこの旅は始めから終わりまで徹頭徹尾自分自身のものなのでしかなく、言わば旅そのものが如何にも文学少女らしい、頭でっかちの観念論を生きる為の道程なのだ。いや、観念論と言ってしまえば一番大事な自分自身が欠けてしまうから実存論と言い換えた方がいいかもしれない。少女は実存する〈今ここ〉の自分自身の歩く道程を、無為に終わらせたくないという信念、執念だけで動いている。だから少女があられもなく大人の女性と裸で波間に戯れたり、抱きつきあってみたりするのも、自分で自分を確認する為の必然の儀式のひとつなのであろう。つまり旅の重さとは、実存の重さ、存在の重さであって、少女は自分自身重くなりたくて、旅をしているのだ。

が、そのような少女の内面の独白を聞かされながらひとつ気になってしまったことがある。それは、この脚本は誰が、精確に言えば男女どちらが書いているのだろう、ということだ。男だったとしたら、こういう頭でっかちな実存論少女の人物造形は、典型的に男の観念の産物、つまり木偶なんじゃないのか?…という疑念だった。果たしてエンドロールを見ていたら、脚本は男の人で、原作は女の人だった。どの程度、どのように脚色されているのか判らないけれど、まったくの男の想像(創造)物じゃないらしい。今も手に入るものなら、原作を確認してみたいように思えた。

ともあれ少女はそんな旅の果てに一人の男と出会う。寡黙で純粋な行商の労働者の「男」。もう青年という歳でもなく、かと言って父親というほど歳の離れているわけでもなさそうな「おじさん」。少女はこのような年嵩の男にばかり興味を抱いてきた。何故か?と問うても理由は言わずと知れている、父親がいないからだ! このような筋書きなども、これは男手によるお話なんじゃないかと思える要因ではあるのだが、それはさておき、少女は「男」と事実上の夫婦のような関係になってしまう。少女の旅は一旦ここで終わりを告げて、映画も幕を下ろすことになるのだが、この幕切れはまたどういうことなのか。少女には帰るところはなかったのか。そうだ、確かに少女は母親との確執を抱えて旅に出たのだった。

しかし何より、最も窺い知れないのは結局この少女と母親との関係だ。少女は母親のことを愛している、自分のことのように。母親は少女のことを愛している、自分のことのように。なるほど、そういうことかもしれない。だから男を失った母親の代わりに少女が男を得る。母親はそれを(誇らしげに)告げる少女の手紙を破る。二人の愛(憎)は破綻したのだろうか? いや、おそらく本当はまだ破綻していない。少女が男を「男」と呼び、母親が少女の手紙を破ってしまう、その限りに於いては。

このお話を今現在の日本でやろうと思ったら、多分『害虫』みたいになってしまう。『害虫』の少女は、行方知れずで糸の切れたタコのように、どこかへ流されて飛ばされていく。結局は出会いも別れもありえない、という諦念。(でもそんな諦念も嫌いじゃない。それでも少女は死にやしない。生きていくから。)

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

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