[コメント] パリ、テキサス(1984/独=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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映像といい、ストーリーといい、ライ・クーダーのギターといい、もう言うことなくセンスのいい映画だ〜というのが見終わった直後の感想なのですが、見てから時間がたつにつれ、トラヴィス/ジェニー夫婦の行為が何かものすごくムチャクチャ無責任な気がし始めて、ひとつの衝動としてはわかるけど、やっぱりこれを地でいくほどには自分は「逃走」してないんだなぁと少し安心しました。
トラヴィスのとった行為はとってもよくわかります。誰も自分を知るひともいない、何かを考える言葉すらない世界へ行ってしまいたいという衝動。しかしそれを4年かけて記憶がなくなるほどに経験し、再び逃げてしまう自分が怖いとか言っておきながら、それでもまた逃げちゃうのはちょっと…(まぁ、そこが本当の「男の美学」とかいう地平なのでしょうが)。
また、トラヴィスの妻、ジェニーの気分もわかります。夫から逃げ、子どもから逃げ、しかし逃げた先には喪失感しかなく、それを埋め合わせるため、夫の声を聞くためにテキサスへと戻り、あやしげな仕事をしながら、それでも子どもとつながっているために、義弟のもとにいる息子ハンターへの送金をつづけてしまう。なんかとってもみじめだけど、そんなみじめな自分に陶酔しそう。
映画の中でわたしが好きなのは、トラヴィスが弟の家で息子ハンターと再会し、徐々にふたりの仲が再生され(というか構築され)ていったある日、ジェーンを探しにヒューストンへ行くことにしたという父トラヴィスの(やっぱり身勝手で唐突な)言葉を聞いて、かわゆいハンターくんが言う言葉「やっと一緒になれたのに…」というシーン。
恋人や夫婦というのは、「赤い糸」という伝説こそあれ、もともとが他人であり、そもそもが一緒であったものではありません。それが親子となると、元来ひとつのものであり、そろってひとつのパーツであって、離れていることは引き裂かれていること、それが出会えば「やっと一緒になれた」という言葉がもれる、そんな「自然な」結びつきなのだ――そんな当たり前の見方にとても驚かされます。年のせいか、あるいは自分が親の立場からこれを見ているからかもしれません。全然そんなこと、いいことだとも「自然な」ことだとも思っていなかったので。わたしがまたそこへと戻っていけるかもしれない、そんな場所がこの世にはまだあるのかもしれない、そんな風に思えた瞬間だったのです。
この数ヶ月、わたしはどうにも「世界とは私の世界である」的な独我論をすっかり「利用」して、説明を拒む生のリアルな確かさ、生きられる生の超越論的な価値や永遠性といったものに対して、すっかり盲目であったように思います。わたしはすっかり自分自身というものにはりついて、その小さな小さな空間でのみ、切れ切れに息をしていたように思います。今もあまり状況は変わりませんが、それでもどこか、もう逃げる場所が無限に作り出せるような、変に昂揚した気分に自分のすべてを任せてしまうことにむなしさを感じるような、そんなところまで歩いて来たように思えてきます(蜃気楼かもしれませんが)。
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