[コメント] 砂の器(1974/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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正直、丹波が新たに旅に出ようとするたびに、観ている僕もちょっと心が躍るのを自覚したのだけど、作品全体を通して考えれば、やはりそれは適切ではなかったように思う。丹波が苦しげに旅して周ってこそ、終盤の長々とした“宿命”シークェンスでの父子の旅の苦難と丹波の捜査の苦難とが重なり得るはずなのに、序盤から中盤に於ける苦難の溜めが充分に利いていない。捜査の過程は、字幕の多用のせいもあり、多分に状況説明的だ。丹波が途中で「伊勢に行きたいな」と漏らす台詞も、捜査上の必要というよりも、旅への憧れという雰囲気が漂う。丹波は真剣に演じていたとは思うが、あまりに余裕かましすぎな演技なのだ。父子の旅が、その境遇によって強いられたものであったように、丹波の旅も、「また新たな土地に行かなくてはならないのか」という苦しさが込められているべきだった。
この映画を見ている最中、僕もぶらりと日本の田舎に旅してみたいなぁとふと感じたのだが、むしろ、だからこそこの演出に疑問を覚える。逆に「一つ所に落ちついていられるのはなんて幸福なんだろう」と感じさせるべきだろう。そうした意味で、やはりこの映画は娯楽作の域を出ていないのだ。
旅という要素に絡んでのことだが、要所要所のシーンでは線路が印象的な形で画に入ってくる。まず殺人現場が操車場。犯人の愛人(島田楊子)が、血に染まった衣服の切れ端を紙吹雪のように撒くのも列車からで、それを若手刑事(森田健作)は線路の脇で必死に探す。この愛人が流産するのも列車の踏み切り。血と線路という取り合わせは、冒頭の殺人現場の反復でもあるだろう。「生まれてきたこと、生きていること」が「宿命」だという犯人・和賀の言葉(殺人の動機でもある)も、流産という形で反復される。そして、終盤の“宿命”シークェンスで幼き日の犯人が、病院に連れて行かれようとしている父を追って走るのも、線路の上。
この“宿命”シークェンスだが、延々と流れ続ける劇伴が、当の犯人・和賀英良(加藤剛)の作曲したものだという設定によって、音楽的な情動がそのまま和賀のそれとパラレルになる辺りは、やはり見事。編集の仕方も、過去と現在を連携させるよう配慮されている。例えば、回想シーンで少年時代の和賀が、自分を探し、名を呼んでいる三木(緒形拳)の姿を見下ろして涙を流しているカットに続いて、現在の和賀が汗を浮かべて演奏に集中する表情を挿入するなど。だからこそ、丹波の「和賀は今、父親に逢っている!彼は音楽の中でしか父に逢えないんだ!」という台詞も説得力を持つ。
ただ、やはりこのシークェンスはやたらに長すぎる印象が拭えない。字幕による説明の多さや、先述した丹波の旅と併せて、演出的には大雑把に流れてしまっているのが惜しまれる。
殆ど内面が描かれない和賀だが、着け続けていたサングラス(自らを偽っていることの暗喩)を“宿命”シークェンスで外すことや、演じた加藤の、彫りの深い鋭角的な顔貌が、その「宿命」の深刻さを、最低限度には確保している。
冒頭の、影と砂丘と、並べられた泥の器。車窓から差し出された手からこぼれる紙吹雪。誰からも目を背けられながら放浪する父子を唯一温かく迎え入れているかのような、桜の美しさ。幾つかの映像にはやはり鮮烈な印象を受ける。身を隠すようにしている父が、村の子供らに苛められる息子を救うためにその姿を晒して駆け寄る姿や、その父子になおも石を投げる子供らなど、哀しみと情感とがない交ぜになった回想シーンが、残酷に美しい。
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