[コメント] グッドフェローズ(1990/米)
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個人的にスコセッシ先生は熱心に追っていなかった。初めて観たのが『ディパーテッド』で、これがあまり好みでなかったからなのだが、見返してみようと思っている。今のところ、おかしな順番と思うが、「ディパーテッド」→『ウルフ・オブ・ウォールストリート』→『沈黙』→『タクシードライバー』の順で触れており(少なっ!)、このうち最も感銘を受けたのが「ウルフ〜」だった。そこには「罪」や「罰」とか「倫理」が、多分99%、なかった。奇妙に充実した愉しい空虚があり、当然「神」など入り込む余地もなかった。リアリズムなのかは分からなかったが、まさしく時代の気分だと思った。意識的に排除されたそれらこそテーマだったろう。
そんな映画の後になんで「沈黙」なのだろうと製作動機についてwikiなどを引くと、もともとスコセッシ先生はカトリック司祭を志した経緯もあったと記載があった。これは無視できないなあという考えの下地があった上で本作に触れた。そこで得た感想は、どうもスコセッシ先生は、優れた作品の中では反神的反語表現(流麗な軽薄さ、テロ、暴力性)ないし直球のテーマ(『沈黙』)で現代の「神」の有り様を模索している人なのではないか、ということだった。
「神」という表現は若干きな臭いが、他に良い言葉もにわかに思いつかないので、とりあえず簡単に「罰する者」というくらいの意味合いで使うけれども、ともかく、「ウルフ」でも本作でも、誰も「罰せられる」ということに意識が向いていない。「法」は買収される。彼らの「規範」は「ゴッドファーザー」(イタリア系ファミリーのボスであるポーリー)の調停者であり時に罰する「徳」であったが、それすら個人主義に売られ、滅びるまでの顛末が時代と重ね合わされるのが本作だ。法や、徳すらあってないようなものであり、一種の神殺しだ。罰する者は一見いないようにも見える。
しかしここには「罰」がある。終盤(ようやく!)のリオッタは、麻薬の禁断症状や(空虚な)過密スケジュール、睡眠不足、バラされる恐怖感だけではない「何か」に苛まれる。青く高い空から見下ろしていたのは、追跡するFBIのヘリではなかったはずだ。取引先のピッツバーグの売人は「(ヘリは)気のせいだ」と言うが、リオッタはこれに応えない。指摘の意図と受け止めにズレがあったからだ。神経質に青空に向けられ、むしろ「何か」を探すようにさまよう視線。「何か」とは何か。それが「内なる神」だとすればいかにも安易だが、恐らくスコセッシ先生の考えによれば、この当時、神はまだギリギリ(重要)生きていたのだ。続々と退場していく「バラされた」「グッドフェローズ」、「ワイズガイ」達。リオッタは、彼らも含めた「何か」の視線から逃れるように密告し、その視線を遮断するようにドアが閉じられ、映画は幕を閉じる。そして、年月を経て、「ウルフ〜」のあの男が現れるのだ。これは「ウルフ〜」の前日譚なのだ。神なき時代の到来。本当に神が死ぬ時代。イタリア系マフィアというローカルを描きながらも、既にこの映画はその一端を予言していたのではないか。そして『沈黙』は、スコセッシ先生自身にとっても、「信仰」を試すものだったのではないか。
(余談) ・血塗れのシャツで何もなかったようにノコノコ出て来て変化球ギャグにするのって、スコセッシ先生のオハコなんですかね(ディパーテッドで唯一印象に残っているのはニコルソン親分のシーン)。
・トランクの「特殊清掃」のシーンでハーヴェイ・カイテルが登場したら面白かったのに、と思う。先生とゆかりが強いようですし、『パルプ・フィクション』にも繋がっていくとすれば、そんな映画史的面白さも。
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